俺が愛していたアイドルが作ったユニットが、その日、何の前触れもなく現れた一人のアイドルに敗北した瞬間の記憶は、今でも鮮明に覚えている。
 俺が愛していたアイドルの名前は秋月律子という。アイドルを引退してプロデューサーへと転向した律子が作ったユニットの名前は、竜宮小町。俺は律子の選択が間違いではないことを証明したくて……いや、律子本人を応援できない穴を埋めるように、竜宮小町に執着していた。だって律子が、それが夢だと言ったのだ。自分がアイドルであることよりも、他のアイドルをプロデュースしたいと、本人がそう言ったのだ。ファンの俺に律子を引き留める術はなく、律子は竜宮小町を表舞台に立たせて姿を消した。昔の話だ。
 そんな律子がプロデュースする竜宮小町は、年に一度、トップアイドルだけに与えられる『アイドルアカデミー大賞』を目指していた。というよりも、アイドルは皆そこを目指して活動していたように思う。俺も当然、竜宮小町をトップアイドルにするべく必死になって応援していた。竜宮小町が参加するフェスやライブには毎回参加していたし、ファンレターだって山のように送った。道のりは、驚くほど順調だった。水瀬伊織、双海亜美、三浦あずさのトリオは素人目に見ても並では収まらない華があった。竜宮小町は順調にファンを獲得し、ランキングを上げていた。俺も、周りのファンも、竜宮小町がアイドルアカデミー大賞を受賞するだろうと信じて疑っていなかった。
 …あの日、あのアイドルに敗北するまでは。

 絶好調だった竜宮小町の前に立ちはだかったアイドルの名前を、天ヶ瀬冬馬といった。その男は、全く名の知られていない新人アイドルだった。このフェスに勝てば竜宮小町のアイドルアカデミー大賞ノミネートは約束されるだろう。まことしやかにそう囁かれていたような、竜宮小町にとっても、俺たちにとっても重要なフェスだった。だから、そんなステージの対決相手が無名のアイドルだったことに、俺はたまらなく安心していた。竜宮小町の実力なら余裕で勝てる。あの場にいた全員がそう思っていたことだろう。会場の空気だって十分すぎるほど竜宮小町に傾いていた。けれど。
 天ヶ瀬冬馬はその圧倒的なパフォーマンスで観客の視線を釘付けにして、同情や哀れみで溢れていた会場を、これでもかというほど盛り上げていた。隣のステージだ。危機感はすぐに伝わった。
 気がついたとき、俺は喉から血が出ているんじゃないかと思うくらいに叫んでいた。このままだと負ける。律子が作ったユニットが、律子の魂が注がれたユニットが、あんな。あんなわけのわからないぽっと出のアイドルに負ける。嘘だ! 嘘だ、嘘だ、嘘だ! だってこっちは竜宮小町なんだぞ!? 律子が選んだアイドルなんだぞ!? 負けるわけがないだろう!? 声の限り叫んで、叫んで、叫んで――…俺たちの声援は虚しく空に響き、竜宮小町は天ヶ瀬冬馬に惨敗した。
 あのときの、天ヶ瀬冬馬の、自分が勝って当然だという表情を、伊織の絶望にも似た表情を、俺は今でも覚えている。
 このフェスで大敗した竜宮小町は、律子は、そのままアイドルアカデミー大賞争奪戦から身を引いてしまった。俺はその年のアイドルアカデミー大賞を一体どのアイドルが受賞したのかも見届けぬまま、律子に、竜宮小町に、アイドルというコンテンツそのものに蓋をした。

 アイドルは星の数ほど存在するが、輝きを手にするのはその中でもほんの一握りの才能だけらしい。
 …なるほど。そういうことなら、確かに天ヶ瀬冬馬というアイドルにはその才能があったのだろう。秋月律子という頭脳を、竜宮小町という華を散らすだけの力が、才能があいつにはあった。
 天ヶ瀬冬馬率いるジュピターというユニットが、これでもかというほど世間を騒がし、そして解散したことを知ったのは、アイドルアカデミー大賞の授賞式が行われたあとのことだった。天ヶ瀬冬馬が彗星の如く現れたアイドルだったように、それ以上の才能を持ったアイドルが奴の前に現れたのかもしれない。
 それだけの話で片付くほど、アイドルの世界は簡単で厳しい。それを世に知らしめたのは他でもない天ヶ瀬冬馬だった。

 ――そして俺は今、天ヶ瀬冬馬の、ジュピターのパフォーマンスを見つめている。
 アイドルを手放し、抜け殻のような生活を送っていた俺に恋人ができたのは、あの出来事から一年ほど経った日のことだった。横顔が少しだけ律子に似ていた。たったそれだけの理由で惹かれた。話をしてみれば、彼女も今時の若者らしくアイドルが好きだった。もう過ぎた話だけどさ…。そう前置きをして、かつて愛していた秋月律子と竜宮小町の話を聞かせると、彼女は歌うようにその口を開いた。
「だからって、嫌いになったわけじゃないんでしょう?」
 りっちゃんも、竜宮小町のみんなのことも。アイドルだって。
「765プロがアリーナでライブを成功させたことは知ってる? あのライブ、わたし行ったの。とっても楽しかった。みんな笑ってて、キラキラしてて……うん、やっぱりアイドルって素敵な存在だよね。夢を乗せるって言うのかな。あの子たちががんばってるところを見るとわたしも幸せな気持ちになる。……ねえ、好きなものを好きだって言わないのはもったいないよ。アイドル、ほんとうは大好きなんでしょう?」
 何もかもを見透かすような視線を向けられて、返す言葉もない。
 夢を乗せる。その感覚は、わかる。俺はきっと、律子と竜宮小町にトップアイドルになってほしいという夢を乗せたのだ。トップアイドル。そう呼ばれる存在に俺たちファンが押し上げてやらなくちゃいけなかった。けれど、想いが、声が、結果に繋がらないことを俺は知ってしまった。
 恐ろしかったのかもしれない。愛していたアイドルが引退してしまったことも、愛していたアイドルが作ったユニットをトップアイドルにできなかったことも。期待を持つのも、期待をさせるのも可哀想だ。可哀想だと思うくらいなら、アイドルなんて応援しないほうがいい。そう考えて……いや、そう思い込んで、俺はアイドルから逃げた。馬鹿みたいだ。彼女の言ったとおり、俺はアイドルという存在が好きで仕方ないくせに。
「……いいのか? あのとき、何もしてやれなかった俺が、また律子や竜宮小町を好きになっても」
「うん。きっとみんな喜ぶよ」
「っ……ぜんぶ捨てようと思ったんだ。ポスターやCD、書きかけのファンレター。でも、できなかった。捨てることなんてできなかったんだよ……!」
 だから箱に入れて、蓋をした。見えない場所に思い出を閉じ込めて、忘れた気になって、安心していた。
 ギュッと彼女に手を握られる。ああ、好きだと思った。もう一度だけ、愛してみようと思えた。律子のことを、律子が愛した三人のことを。
 家に帰ったら、蓋を開けるのだ。そして、長いこと使っていないオーディオで律子の歌を聴こう。そうして俺は、また律子に夢を乗せるのだ。新しい曲を歌ってくれたら嬉しい。でも、アイドルでなくなったっていい。プロデュースがしたいならその道を貫いたっていい。…ただ、律子は律子らしく笑っていてくれと、それだけを願うのだ。
 俺にとって、秋月律子は、永遠にアイドルなのだから。
「ねえ。いつか、わたしが愛してるアイドルに会わせてあげるよ」
 ――そんなことがあってから二年。二枚のチケットを手にした彼女に連れてこられたのがこの会場だった。
 またアイドルと向き合うようになって、俺は気まぐれに天ヶ瀬冬馬のことを調べた。天ヶ瀬冬馬はユニットを解散しただけではなく事務所も移っていたらしい。あの頃と変わらないメンバーを引き連れて、今もジュピターとして活動を続けていた。彼女が愛するアイドルとはまさに天ヶ瀬冬馬のことで、それを知ったときは少しだけ戸惑ってしまったが、本人を目の前にして、なるほど、と思わずにはいられなかった。

「みんなー! まだまだ飛ばして行くぜー! ちゃんと着いて来いよー!」
 偶像。崇拝。憧れ。アイドルを意味する言葉は多いが、天ヶ瀬冬馬はどの言葉も当てはまるような存在だった。
 あいつのステージを見るのは今日が初めてだ。あのときは、隣のステージに気を取られている暇なんてなかった。けれど何もかもが終わったときの、氷のように冷たく醒めた目。あの目だけはよく覚えている。今、このステージでそんな目をしているアイドルはいない。天ヶ瀬冬馬本人が変わったのか、これが意図したものなのかはまだわからなかった。
「今回のライブは特別なの」
 ライブが始まる前に彼女はそう言っていた。何が? と訊いた俺に彼女は少しだけ困った顔をして、それでも続けてくれた。
「今の事務所に移って三年目。アリーナで初の単独ライブ。ジュピターは持ち歌も多いし、ファンの間でもセットリストが想像できないって話をしてて…」
 もしかしたら、ね。そこで彼女が言葉を区切る。
「歌うかもしれないって。……961にいた頃に歌ってた曲」
 961。それはもともとジュピターが所属していた事務所の名前だ。俺たちを、律子を、竜宮小町を苦しめた曲が披露されるかもしれない。それはとても怖いことだ。当時リリースした曲はふたつだったか。どちらの曲もランキングの上位にいたから、耳にしたことはある。
 熱量を持ったライブは進み――そして、彼女が言ったとおり、その瞬間は訪れてしまった。

 ステージ上のすべてのライトが落ち、暗闇の中、三人の姿が見えなくなる。ざわめく観客を置き去りにして、重厚なサウンドが会場を支配した。曲のはじまりと同時にスクリーンにはジュピターのエンブレムが映し出される。けれど。それは、十字架を背負ったそのエンブレムは、俺が知らない、見たこともないものだった。うそ。隣で口を押さえる彼女を見て、これか、と思う。
 歓声と戸惑いの声が湧き上がり、止まらない。満を持して現れた三人は、あの頃と同じ、漆黒の衣装に身を包んでいた。白いスモークを浴びながら揺れるシルエット。黒と緑に輝くサイリウムの海。その光に照らされて、天ヶ瀬冬馬は重々しく口を開く。
「嘘の言葉が溢れ――」
 ……そこには、あの日の天ヶ瀬冬馬が居た。無名の新人アイドルとして律子と竜宮小町の前に現れ、俺たちの夢を、願いを、粉々に打ち砕いた天ヶ瀬冬馬が居た。
 まさに。この空間の絶対的な支配者。さっきまで満面の笑みでクラップをしていたのに、今は微笑みのひとつも浮かべていない。その瞳は、声は、研ぎ澄まされた刃のようだった。
 そしてそれは、伊集院北斗と御手洗翔太にも言えることだった。甘い言葉と表情で愛を歌っていた青年は、得意気な笑みで軽快なダンスを披露していた少年は、もうどこにも居ない。天ヶ瀬冬馬の隣に立つ二人は、けれど霞むこともなく自分の存在を証明している。
 これが、ジュピター。一握の存在。嫌でも見惚れてしまう。

 竜宮小町はこんな奴と対戦していたのか。すごいな。こいつになら負けても仕方がなかったんじゃないか。そんなことを考えてしまう自分が心底情けなくて、悔しかった。でも、あの日、天ヶ瀬冬馬にあって、竜宮小町になかったものがわかるような気もした。
 キラキラと笑顔を振りまいて輝くだけが、アイドルじゃない。自分をどんな風に魅せればいいのか、どんな振る舞いをすれば人の心を盗むことができるのか。天ヶ瀬冬馬には……違う、天ヶ瀬冬馬をプロデュースしていた人物にはそれがわかっていたのだろう。おそらく奴はステージの上で、どんな色にも染まることができるのだ。明るい曲なら楽しそうに弾んでみせるし、強く鋭い曲なら凍てつくような視線を送ることができる。
 きっと、それはアイドルにとって重要なことだ。悲しいラブソングを笑顔で歌ってみたところで、評価なんてされるわけがない。

 そういえば、どうして天ヶ瀬冬馬だったのかと彼女に訊いてみたことがある。星の数ほど存在するアイドルの中から、どうして天ヶ瀬冬馬を選んだのかと。彼女は少しだけ考えて、静かに語りはじめた。
「彼がどこまで登りつめるのか、気になったから」
 ――わたしね、あなたと同じフェスに居たの。竜宮小町と天ヶ瀬冬馬が対決したあのフェスに。贔屓にしてるアイドルが居るわけじゃなかった。友達と一緒にふらって足を運んでね。あ、今日のフェスに参加してるの竜宮小町だ! やった! …ってね。でもわたし、がんばってる人が好きなの。だからあの日は余裕で勝つだろうって言われてた竜宮小町より、初めて見る名前の、天ヶ瀬冬馬って子を応援してた。ステージに立つのに、応援してくれる人が居ないなんて寂しいでしょう? まあ、そんなもの、あのときの彼にはいらなかったんだろうけどね。
 ……曲がはじまってから盛り上がるまではすぐだった。わたしもあっという間に目を奪われたよ。曲が格好いいとか、ダンスにキレがあるとか、見た目が良いとか、そういう次元の話じゃなかったもの。この人、トップアイドルって呼ばれる存在になるんだろうなって思った。トップアイドルすら突き抜けて、もっと遠い存在になってしまうんだろうなって思えた。それだけの輝きを放ってたよ。馬鹿みたいって思うかもしれないけど、わたしはあのとき、まだ名前しか知らないアイドルの未来を見たような気がするの。
 だから、わたしは天ヶ瀬冬馬のことを愛そうと思った。彼がトップアイドルになる瞬間をこの目で見届けたいと思ったから。
「……結局、ジュピターはアイドルアカデミー大賞を受賞する前に解散しちゃったんだけどね」
 でもしばらくして、ジュピターはまた活動をはじめたの。大手事務所を飛び出してインディーズよ。インディーズ。当然、ライブハウスだって小さいし、CDも出なかった。…ねえ、わたし、自慢じゃないけどインディーズ時代のジュピターのライブを一度だって見たことないのよ? ほんとうだってば。…そう、こんなに愛してるのにね。どれだけ粘ってみてもチケットは取れなかった。とっても悲しかったけど、でも、それだけジュピターのことを愛してる人が居るんだなって思えたのはよかったなあ。
「ねえ。アイドルがアイドルでいられなくなる瞬間って、どんなときだと思う?」
 自分のことをアイドルだと思えなくなったときじゃないかなって、わたしは思ってる。
 アイドルをアイドルたらしめるために必要なものは、きっと、わたしたちみたいな存在なのよね。
 ――そう言って微笑む彼女の横顔は、とても美しかった。

 異様な空気の中、ジュピターはその曲を歌い終えた。歓声は止まない。曲が終わるのと同時に泣き崩れる者も居た。彼女も、頬を濡らして泣いていた。俺は、ジュピターというユニットがどうしてこんなにも人の心に訴えかけるものを持っているのかが不思議でならなかった。そして、考えるまでもなく、その答えを知っていた。
 その昔、アイドルのことを偶像で固められたまがい物だと評する男がいた。アイドルの嘘で塗り固められた言葉と笑顔。それを受けて喜ぶファン。その光景が宗教臭くて気持ち悪いのだと、男は口にしていた。男の言うことは最もだろう。アイドルは確かに生身の人間だが、愛されるように作られた存在だ。本心なんて見えない。けれど。本心を見せず、ファンを喜ばせるために努力を惜しまない存在を、愛されるために生まれてきた存在を、俺たちが愛さなくて誰が愛するというのだ。
 天ヶ瀬冬馬ほど、偶像を体現しているアイドルもいないだろう。求められているものを表現できる才能があいつにはある。ステージの上に立つ自分が、ファンにとって唯一無二の存在であることを知っている。それは、アイドルにとって幸福なことだ。
「――なあ。俺にも見えたよ」
 ジュピターがトップアイドルになる瞬間が、あの三人が笑いあって肩を組む未来が、俺にも見えてしまった。俺は天ヶ瀬冬馬というアイドルを愛することはできないけれど、それでも、確かに。
 再びスクリーンに映し出されたエンブレムが姿を変えていく。見なれたそれは、今のジュピターを象徴するにふさわしい形をしていた。




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