※情緒不安定な冬馬


 あの瞳が、何かを訴えるように歪んだ瞳が、俺を見透したその先の誰かを見つめていることなんて、きっと、初めて対面したときからわかっていた。
 ――稲妻だ、と思った。脳天から足の爪先に向かって稲妻が落ちた、と思った。目と耳と鼻と口、その他諸々。人間は実に穴だらけだ。その穴から無数の情報を吸収して、世界を知っていく。
 そのアイドルを初めて目撃したとき、まずいと思った。それはもう直感的に。目と耳と鼻から、俺はステージの上に立つ少年のすべてを吸収してしまった。愚かにもこの身体は天ヶ瀬冬馬というアイドルを知ってしまった。もう、天ヶ瀬冬馬を知らない世界に戻ることはできない。恐ろしかったのは、そんな彼を知って平然と過ごしている人間がごまんといる事実だった。
「彼らのプロデュースを君に任せようと思っている」
 この芸能事務所に転職して数週間。以前の事務所で担当したアイドルは皆日の目を見ることなく辞めていった。そんな俺に、任すと口にした社長は笑っていた。君があの子たちを気に入ってくれたみたいで良かったよ、と、そう言って笑っていた。
 正直、プロデューサーとしての能力は低いほうだと思っている。俺にその御鉢が回ってきたのは、つまり、その、彼らを制することは期待されていないということなのだろうか。けれどもまあ、それで良かった。今更、彼らにプロデュースなんて必要ないだろう。すでに完成しているアイドルなのだから、下手なことをしなければ失敗することもない。俺は彼らの魅力が伝わる手伝いをしてやればいい。それだけの仕事を取ってくればいい。このときは、そう思っていた。
「――へえ? あんたが俺たちのプロデューサー?」
 初めて対面したとき、冬馬はそう口にしながら、値踏みするように俺の身体を上から下へと見つめていた。あいつとはぜんぜん違うな。ときどき、北斗や翔太と目を合わせながらそんなことを口にしていた。あいつって、誰だ。そんなことを口にできるわけもなく、俺は冬馬の視線から逃れるように自分の名刺を差し出した。
「これからよろしくな。翔太、北斗、――冬馬」
 その名を呼んだ瞬間、空気が凍ったことを今でも覚えている。
「……悪いんだけど、名前で呼ぶのやめてくれる?」
 泣きそうな顔をしてそう俺に懇願してみせた冬馬の、あの表情。北斗がすぐに冬馬を咎めて、翔太が気にしないでねとフォローしてくれたが、嫌でも理解した。冬馬が俺を通して誰か別の人間を見ていることを。その疑心は、冬馬と接する時間が増えるたびに確実なものになっていった。
「プロデューサーは真面目だよな。俺はもう少し、馬鹿正直で熱いタイプのやつがよかった。……まあそれも、過ぎた話なんだけど」
 懐かしむ、というよりは、そう口にしながらその身に刻んでいるといった風だった。冬馬は事あるごとに俺と誰かを比較して、俺ではない別の誰かを求めていた。俺ではない別の誰かに側にいてほしいのだと、全身が語っていた。態度や言葉、目が、それを隠しきれていなかった。
 あの天ヶ瀬冬馬をここまで狂わせた人間が居ることに俺は驚いていた。冬馬が相手を狂わせているのではなく、冬馬が他人から狂わされているという事実に頭が追いつかない。一体誰が。気になって仕方がない。けれど、それを聞く相手はいない。馬鹿みたいだった。俺は冬馬のことをこんなにも愛しているのに、冬馬はちっとも俺を見てくれない。どころか、生きているのか死んでいるのかもわからない奴のことを慕っている。
 気が狂いそうだった。俺が何かを口にするたびに「違う」と眉をひそめる冬馬のことが憎くて。けれどそれ以上に可哀想で。なのに、仕事となるときっちり俺の視線を奪うアイドルと化すのだから厄介だった。冬馬がマイクを握ってその歌声を披露するたびに。マイクを投げ捨ててダンスを披露するたびに。俺はどうしたって冬馬から目が離せなくなる。このアイドルを誰よりも愛してしまう。もう愛したくないと思っているのに、天ヶ瀬冬馬というアイドルを、俺の世界は知ってしまったから。
 ――もう、遅いのだ。何もかも。

「っ、プロデューサー。痛い、離せよ」
 掴んだ手首は思ったよりも細かった。細いと思いつつ、しっかりと力を込めて握りしめて、俺は冬馬を連れてスタジオ内を歩いていた。通りすがったスタッフの視線が痛いが、今はそれどころじゃない。
 他事務所のアイドルと共演することなんて山ほどある。けれど、今日は少し違った。冬馬の落ち着きのなさは火を見るより明らかで、その理由を、俺は嫌でも知ることになった。
「冬馬」
 空き部屋に冬馬を押し込めて、壁に向かって突き飛ばす。痛みに呻く冬馬の耳元で、呼ぶなと言われていた名を呼べば、冬馬はひくりと喉を鳴らした。薄暗い部屋の中でも冬馬の戸惑った表情が手に取るようにわかる。
「あいつだったんだな」
 おまえを狂わせた男は。
 他事務所のプロデューサー。明朗闊達そうな男だった。冬馬と親しげに会話をし、ときたま手を伸ばして軽いスキンシップを取りながら、終始笑っていたその男は、なるほど確かに俺とは全く違うタイプの人間だった。きっと優秀なのだろう。研修帰り、という言葉が耳に届いた。アイドルをプロデュースする人間が研修に向かう先なんて限られている。もしもあの場所なら、とんでもない逸材だ。
「冬馬。おまえはあの男に自分を見てもらいたかった。違うか?」
「な、なに言って……、つーか、名前、」
「ああ、そう呼ばれてたな。冬馬って」
「っ…!」
 冬馬の顔がくしゃりと歪む。泣きそうだな、と、俺は至極冷静に思いながら、冬馬を見下ろしていた。ここにいるのはアイドルの天ヶ瀬冬馬じゃない。ただの、十七歳の天ヶ瀬冬馬だ。アイドルの冬馬は俺を魅了して止まないが、十七歳の冬馬は俺を苛つかせて止まない。自分の思い通りに事が運ばなかったことをいつまでも受け入れられない、可哀想な子ども。でも、それが、そんな冬馬だからこそ。ああ、なんて、愛おしいんだろう。
「おまえのプロデューサーは俺だな? 冬馬」
 言い聞かせるようにそう口にしてみると、冬馬はぎゅっと目を閉じて、緩く首を横に振った。違う、と小さな声が俺の耳に届く。違わない。そう返して、おまえのプロデューサーは俺だと、もう一度だけ告げれば、ぽろりと、見開いた冬馬の目から涙がこぼれ落ちた。
「あ、あんたじゃない……」
 俺だよ。
「っ、俺は、あんたにそれを、望んだことなんて一度もない」
 でもおまえは俺のことをプロデューサーって呼ぶじゃないか。
「あいつがよかった…! だってあいつが辞めるなって言ったから俺は…っ! あんたじゃないっ、…俺は、あいつにだけ見ていてほしかったんだ…!」
 それは無理だ。無理だって、おまえもわかってるんだろ?
「――あの人が輝かせたいと思ってるアイドルは、おまえじゃないんだよ。天ヶ瀬」
 突き飛ばした身体を抱き寄せる。冬馬は、俺の腕の中で声を殺して泣いていた。子が親を選べないように、アイドルはプロデューサーを選べない。どんなに望んだって、望んだものが手に入るとは限らない。……俺も、冬馬も。
 頬を濡らす涙を指先で拭って、舐めてみた。その涙は他の人間と同じようにしょっぱかったが、それでもこれが冬馬の味なのだと思うと、またひとつ、世界が広がったような心地がしたのだ。




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