「うーん。…明日は学校に行かなきゃなんだよね」
 ひさびさの休日は何をして過ごそうかと口にすれば、返ってきたのはそんな、少しだけ不満そうな声だった。
 翔太の頭を乾かそうと準備していたドライヤーをうっかり滑り落としてしまいそうになる。わかったと返事をして、誤魔化すように手招きをすると、風呂上がりの翔太はいそいそと冬馬の足の間に収まった。ドライヤーの電源を入れる前に、肩にかかったままのタオルで濡れた髪を拭き上げる。
 勝手に期待していたのは冬馬のほうだ。ここしばらく仕事が立て込んでいて、丸一日のオフを最後にもらったのはいつだったかも覚えていない。だから明日の休みは翔太のために使おうと思っていた。どこにでも行くつもりだったし、なんでもしてやろうと考えていたし、食べたいものは全部作ってやろうと決めていた。しかし翔太に予定が入っているのならば仕方ない。そう納得しようとして、ふと疑問が浮かんだ。
「…ん? 明日って土曜日だよな。補習か?」
「それ今気づいたの? 違うよ、写真撮らなきゃいけなくて」
「写真?」
 卒業アルバムの、と続いた言葉に冬馬はああ、とあいづちを打つ。
「おまえ、ぜんぜん学校行ってなかったもんな」
「だって朝起きれないし。めんどくさいし。冬馬君も北斗君もいないしつまんないもん」
 すっかりぶすくれてしまった翔太に冬馬は喜べばいいのか呆れたらいいのかわからなかった。洗い流さないトリートメントを髪全体に湿布しながら、がんばれよ、とそれだけ声をかける。
 おそらく、翔太の学校嫌いはアイドルとして活動を始めてからのものではない。いつだったか、小学生のときにぱったりと行かなくなったという話を聞いたことがある。ヒーヒー言いながら課題をこなし、やっとのことで卒業までこぎつけた冬馬とは大違いだ。
「そうだ! ねえねえ、明日、冬馬君も一緒に行こう? 僕、冬馬君と一緒に学校行きたい」
 名案とばかりに翔太の声が弾んだ。くるりとこちらを向かれて、キラキラとした瞳が訴えてくる。その瞳が、いいよね? だめかな? と語っている。ねえ冬馬君、とすがるような声色で名前を呼ばれたらもう冬馬に勝ち目はなかった。かわいいものはかわいい。この年下の少年がおねだり上手なのもあるだろうが、冬馬がそれ以上に甘いのだ。自覚はあるが改めようとは思わない。きっと北斗もそうだろう。
「ったく…仕方ねーな」
「やったあ!」
 すっかり上機嫌になった翔太の頭を撫でてドライヤーの電源を入れる。柔らかな髪は触れていて心地がよかった。
 思いがけず明日の予定が決まってしまったが、写真を撮るだけならそこまで時間もかからないだろう。もともと翔太のわがままに付き合うつもりだったのだし、結果オーライだ。それに、翔太が通う中学校に興味がないと言えば嘘になる。少しだけ心を踊らせながら、冬馬は翔太の髪をいつもより念入りに乾かした。


 おはようというには遅い時間に起きて、そこそこの量の朝食兼昼食を胃の中に収めると、冬馬と翔太は揃って冬馬の家を出た。はあ、と白い息を吐く。一月の空はいつも灰色だ。
 コートを羽織っているとはいえ、休日に学ランを着ている中学生と並んで歩く自分は何に見えるのだろうか。歳の離れた友人ではなく兄弟に見えていたらいいなと思う。だってそのほうが親密そうじゃないか? なんて、そんなのは一人っ子のわがままだ。
 黒井の元にいた頃は決して乗ることの許されなかった公共交通機関に身体を揺られながら、冬馬は見慣れない翔太を見つめていた。仕事中は決して降ろさない前髪が今は目をも覆っている。ステージの上では誰よりも元気で目立ちたがりな少年はどこにもいない。
 チョーシ狂うぜ、と冬馬はニット帽の上から頭を掻いた。
「あれ、翔ちゃんじゃないか。久しぶり。今日はどうしたんだい?」
 校舎に入る前に声をかけられる。目線の先では初老の男性がスコップを持っていた。土を慣らしているのか、花壇には何も生えていない。
「こんにちは岡崎さん。先生に呼ばれて、アルバムの写真を撮りに来たんだ」
 身を乗り出して挨拶をする翔太にならって冬馬も小さく頭を下げる。この学校の生徒ではないと明白だが、岡崎という男は目元を細めて微笑むだけだった。翔ちゃんのお兄さんかな? という言葉にホッとしながら頷く。
「もう卒業式まで来ないつもりだったから、岡崎さんに会えて嬉しいな」
「翔ちゃんも卒業か…寂しくなるねえ。春になったらこの花壇もきれいになるから、きっと見においで」
「うん。絶対見に来るね」
 そんな会話をして昇降口に入ったあと、翔太は冬馬を見上げて、お兄さんだって、と笑った。からかわれてるようにも嬉しがっているようにも見える。冬馬の反応で対応を変えるつもりなのだろう。その手には乗らないとばかりに冬馬は翔太の耳元に手をやって、一言だけ囁いた。
「おにーちゃんって呼んでもいいんだぞ」
 その瞬間、大きな笑い声が昇降口に響く。よほどツボに入ったのか腹を抱えて笑い、指先で涙を拭うような動作までしている。そんな翔太に腕を掴まれて、引っ張られて、冬馬は少しだけ膝を曲げた。
「言わないよ。冬馬君は僕の恋人でしょ?」
 ナイショ話をするよう耳元で告げられた言葉にギョッとする。逃げるように自分の下駄箱に向かった翔太を、冬馬は呆然と見送った。
 クソ、悪魔かよ。そうだ小悪魔だった。ほてった頬を冷たい手のひらで抑えて冷やす。翔太によって引き出された熱はしばらく引きそうになかった。

 それから冬馬は笑みを絶やさない翔太に手を引かれ、校内を巡ることとなった。とは言っても休日の校舎はどの教室も鍵が掛かっていて好き勝手に出入りすることはできない。しかし、体育館の前を通ればボールが床を跳ねる音がしたし、至る場所で練習をする吹奏楽部の音色が聞こえてきて退屈することはなかった。
 来賓用のスリッパからペタペタと鳴る音も新鮮でおもしろい。冬馬は翔太による校内のふんわりした解説に耳を傾けていた。視聴覚室に図書室、理科室にパソコン室。きっと翔太も入ったことはないのだろう。窓越しの教室をものめずらしそうに眺めていた。
「じゃじゃーん。職員室からくすねて来ましたー」
 得意気な顔をして翔太がポケットから取り出したのは一本の鍵だった。三年五組と書かれた教室の前で立ち止まって、鍵口にそれを差し込むと目の前の扉は難なく開く。翔太に続いて冬馬も教室の中に入ったが、そこは教卓があって机と椅子が並んでいる、どこにでもある教室の光景だった。
「ここが僕のクラス。僕の席は廊下側の一番後ろなんだー」
「へえ、ちゃんと覚えてたのか」
「配慮ってやつだよ。僕みたいにたまーに来る子が少しでも入りやすく、出やすくなるようにっていう、先生のね」
「…なるほど」
 自分の席に座った翔太を追うことなく冬馬は黒板の横にあった掲示板に目を向ける。給食の献立や時間割、各教科ごとに成績優秀者の一覧が貼られたが、どこにも翔太の名前はない。
「なんだか不思議だなあ。冬馬君がこの教室にいるなんて」
「自分で連れ込んどいて何言ってんだ」
「うん。すごく嬉しい。僕、冬馬君と同じ学校なら毎日通ってたかもね」
 翔太は頬杖をついて、うっとりした瞳で冬馬を見つめていた。掲示板から目を離し、後ろを振り向いた冬馬はそんな翔太の姿を見て何も言えなくなる。何も言えなかった代わりに、翔太の元へ歩み寄るとその前の席へ腰を降ろした。体格に合わないサイズの机や椅子に否応にも歳の差を感じてしまう。
「…翔太」
 甘い目をした翔太から決して目を離さず、頬杖を解いた翔太の頬を指先で撫でる。もっと触ってと微笑みながら擦り寄ってきた頬を手のひらで包み込みながら、目元を親指で拭うように触れると、ゆっくりと顔を近づけてキスをした。
 すぐに離れて、角度を変えてもう一度唇を押しつける。柔らかさを堪能するように何度かそれを繰り返していたが、唇を開いたのは翔太のほうが早かった。物足りないとばかりに舌先で唇を舐められて、冬馬は甘ったるい息を吐く。震えているのを悟られたくなくて、翔太の頬から手を離すと、机の上に腕を置きギュッとこぶしを握った。それから恋人のおねだりに応えられるよう、ぎこちなくではあるがうっすらと口を開けて深いキスを仕掛ける。
「…ん…っ…」
 翔太の、声の出ていない吐息が耳に響いて冬馬はピクリと身体をこわばらせた。つたない息継ぎの合間に舌と舌を絡ませて、快感と呼ばれるものを拾う。薄い舌の感触も、口内を満たす甘い唾液も、すべてが気持ちよくてたまらない。しょうた、と自分でも信じられないほど色めき立った声で恋人の名前を呼べば、控えめな喘ぎの中に自分の名前が交じった。普段なら絶対に聞くことのできない声色に頭がくらくらする。身体中をめぐる熱が心地よくて煩わしい。だって、考えてはいけないことまで考えてしまいそうになる。
 そんなとき、机の上で握りしめていた冬馬のこぶしに翔太の左手が重なった。指先からほどかれて、舌と同じように絡まっていく。反射的に引っ込めてしまった舌を逃さないとばかりに絡めとられて、冬馬は翔太を睨みつけた。見えない唇が弧を描いているような気さえする。クソ、と声にならない悪態をついたあと、再び舌を伸ばした。
 翔太は冬馬に主導権こそ握らせているが、自分の欲望には忠実だ。そして冬馬は欲望に忠実な翔太のことも嫌いじゃなかった。求められているのは、気分がいい。やっとのことで二人の唇が離れたとき、指先は歪な恋人繋ぎになっていた。
「ハッ……おまえ、そんな顔で写真撮んのかよ」
「…とーまくんには言われたくない…」
「ほっとけ」
 唾液で濡れたままの翔太の唇を指で拭って、仕上げとばかりに触れるだけのキスをする。そのまま、唇で鼻先や頬に軽く触れてやると翔太はくすぐったいと言って笑った。
 そろそろ時間だ。そう言って名残惜しそうに解放された右手はさんざん翔太に遊ばれていたせいで汗ばんでいた。


「翔太。晩メシ何食いたい?」
 教室に残していたらしい、いくつかの教科書を詰めた紙袋を横から奪いながら声をかける。岡崎に宣言していたとおり、もうここには来ないつもりなのだろう。翔太は教室に鍵を掛けたあと人差し指を唇にやって悩むような素振りを見せた。
「んー…カレー…いや、ハンバーグ? あっ寒いしお鍋にしようよ! 冬馬君はどう? お鍋!」
「…俺はなんでもいいけどよ。鍋やるなら北斗も呼ぶか。暇なら来るだろ」
「うん。僕あれがいいな、白菜と豚肉がくるくるってなってるやつ」
「ミルフィーユ鍋?」
「それそれ」
 前にテレビで見て姉さんたちが食べたいって言ってたんだー、と続いた言葉に、抜け駆けするのかよと笑う。スマートフォンを取り出して即座にミルフィーユ鍋と検索すると、手頃なレシピが大量に転がっていた。代表的なレシピに目を通して買わなければいけないものはないか確認する。鍋だけで翔太の胃が膨らむかどうかは微妙なところだが、そこはシメで誤魔化すしかない。最悪、デザートになるようなものを買ってくるよう北斗に頼んでもいい。考えをまとめたところで冬馬はスマートフォンを上着のポケットに戻した。数歩先を歩く翔太は鼻歌交じりで楽しそうだ。
 長い廊下を歩いて、長い階段を降りる。正面に職員室が見えたところで、翔太はピタリと足を止めて踵を返した。
「んじゃ、さくっと終わらせてくるから冬馬君は玄関で待ってて」
「おう。…翔太おまえ、アルバムは一生残るもんなんだし面倒だからって適当な顔すんなよな」
「あはは、冬馬君ってばうちの母さんと同じこと言ってるー」
「茶化すなよ。俺はおまえのお母さんじゃねーぞ」
「お母さんとはあんなキスしないもんね」
「っ、翔太!」
 首根っこを捕まえようと手を伸ばした冬馬をひらりと躱した翔太は、そのまま軽やかな足取りでひらひらと手を振りながら職員室の中に消えて行く。冬馬といえば、何も掴むことができなかった腕を降ろして深いため息を吐くことしかできなかった。
 なんというか、翔太にはこれから先もかなう気がしない。大人びた言動で相手を惑わせたかと思えば次の瞬間には年相応の顔をして笑顔を振りまく。アンバランスな生き物だ。アイドルとしての御手洗翔太もそういう生き物だと思う。それが大勢の人を魅了して止まない理由のひとつでもあるのだろう。昇降口に向かって歩きながら冬馬はそんなことを考えた。天性のアイドルとはまさにああいう存在のことを言うに違いない。黒井はそれをわかっていたのだろうか。才能を見る目だけは正しい男だった。
 思えば、あの男がいなければ冬馬はアイドルではなかったし、ジュピターというユニットも存在しなかった。天ヶ瀬冬馬ではなくジュピターのリーダーとして大衆の前に立ったとき、冬馬は翔太と北斗のことを最高のメンバーだと紹介したが、あの言葉は単なるポーズでしかなかった。だってあのときは、まさか本当にそうなるとは夢にだって思っていなかったのだ。


 昇降口で自前のスニーカーに履き替えていると、正面の花壇で岡崎が誰かを手招いていた。きょろきょろと周りを見渡してもこの場には冬馬しかいない。…俺か? と訝しみながら小走りで花壇に近づくと、岡崎は出会ったときと同じ笑みを浮かべていた。
「わざわざ来てもらってすまないね。お兄さん、翔ちゃん待ってるんだろう?」
「…まあ。あの、俺に用っすか?」
「ああ。さっきね、写真って聞いて思い出したんだ」
 本人には断られそうだから、と言って岡崎が懐から取り出したのはハガキサイズの封筒だった。受け取って中身を取り出すと、そこには数枚の写真が入っていた。今よりも少しだけ幼い翔太が満面の笑みで花に水をやっている。ほかの写真にも目を通してみたが翔太はどの写真でも似たような表情をしていた。髪が降ろされているだけで、そこにいるのは正真正銘、冬馬がよく知る翔太だった。
「…翔ちゃん、昔はよくここの花壇に水をやりに来てくれたんだよ。花の世話は私ひとりでやっていることなんだけれど、花壇はここ一箇所だけじゃないからね。大変でしょう、僕も手伝うよって。…優しい、いい子だねえ」
 その噛みしめるような言葉に、冬馬は返す言葉が見つからなかった。手のひらの中、花を愛でる翔太が嘘じゃないよと訴えてくる。さあて、どうだろうな。
「…なんつーか、その、気まぐれな奴ですみません」
 きっと今年はほとんど来なかったに違いない。そのことに対して頭を下げると、岡崎はいいんだよと言って、決して笑みを崩すことはなかった。…なるほど。翔太が懐きそうな老人だ。きっと翔太のとりとめのない話もうんうんと頷きながら聞いてくれるのだろうなと、冬馬はそんなことを思った。
「いたいたー! とーまくーん!」
 よく通る声に名前を呼ばれて振り向けば、そこには大きく手を振る翔太がいた。写真撮影は無事に終了したらしい。冬馬はおお、と返事をして写真を封筒に戻すと肩にかけていた紙袋の中へと落とした。
「それじゃあ――ぐえッ!」
「冬馬君ってばもー。岡崎さんの邪魔しちゃだめでしょ?」
「…おいコラ翔太…急に飛びつくなっておまえは何回言えばわかんだよッ…!」
「さあねー。冬馬君こそちょっとは鍛えたほうがいいんじゃない?」
「やかましい!」
 背中に乗られた衝撃で中腰になりながら文句をつけると、翔太は仕方ないなあと不満気に冬馬から離れていく。震える膝を叱咤しながら翔太のこめかみを小突くと、ごめんなさーいと心のこもっていない謝罪を吐いた。そんな二人のやり取りを見ていた岡崎が耐えきれないとばかりに声を出して笑う。
「はははっ…翔ちゃんはお兄さんのことが大好きなんだねえ」
「うん。でも冬馬君のほうが僕のこと大好きなんだよ。ねー? 冬馬君」
「はあ!? ちょっ、翔太おまえなあ…!」
 ひひ、と歯を見せて笑う翔太に腕を組まれて逃げ場を失った冬馬は、わなわなと身をふるわせた。微笑ましいと言わんばかりの視線を注ぐ岡崎を前に抵抗する気にもなれず、ガクリと頭を垂れる。開いているほうの手で額を抑えると深いため息を吐いた。
「…嫌いならわざわざ着いてこねーよ」
 もういいだろ、と腕を振りほどいてそっぽを向く。じわじわと熱を持った頬が赤くなっているような気がして、隠すようにニット帽を引っ張った。
 そのまま岡崎と談笑する翔太の傍ら、一人いたたまれない気持ちになる。冬馬は兄弟というものを知らないが、一般的にこういう反応をしないことくらいは理解していた。結局、見繕ってみたところで冬馬は本当の兄ではないのだ。翔太に対する感情はその枠を超えてしまっている。冬馬にとって翔太は愛を囁き抱きしめてキスをするような存在になってしまった。
 いつからだったろうか。兄のように自分を慕ってくれている少年に、兄がしないようなことをしたいと思うようになったのは。

「冬馬君」

 とても穏やかな声だった。その声は恐ろしいほど静かで、怒っても悲しんでもおもしろがってもいない。一番聞きたくなくて一番耳に残る声だった。その声の持ち主がニット帽を掴んだままの冬馬の手をさらっていく。困惑を口にする前に指先同士がスルリと絡んだ。
「岡崎さんならもう行っちゃったよ。僕らも帰ろう?」
 振り返るとそこには誰もいない。この数分のうちに何があったのか冬馬には想像することしかできなかった。先に歩き出した翔太に手を引かれて、冬馬は足をもつれさせた。
 校門を出たというのに手放す気はないらしい。外だぞ、と咎めれば外だからでしょ、という言葉が返ってきて頭痛がした。
「ちょっとくらいさ、冬馬君は僕の恋人なんだって自慢させてよ」
 そう続けながら、いたずらを思いついた子供のように目を細めた翔太に、冬馬は喉を鳴らした。
 ――冬馬君は僕の恋人。翔太がたびたび冬馬に自覚させるように使うこの表現は、翔太なりの独占欲の現れなのかもしれない。
 繋がれていた手をほどいてその場に立ち止まると、冬馬は腕を伸ばして翔太の肩を抱き寄せた。そんな冬馬の行動に翔太はわっ、と驚きの声をあげただけで、抵抗もせず腕の中にすっぽりと収まってくれる。
「…悪かったな。俺は別に兄弟とか、そういう風に見られてもいいと思ってたんだ」
「まあ僕って弟キャラだし、冬馬君も好きだもんね。おにーちゃん」
「だから悪かったって言ってんだろ」
「…じゃあ、お詫びにキスしてよ。ほっぺでもおでこでもいいから」
「は」
「おねがい。聞いてくれないの?」
 頬を膨らませ僕は拗ねていますと言わんばかりの態度をとる翔太に冬馬はいよいよ頭を抱えたくなった。きっと、からかいの延長のようなもので本気で拗ねているわけではない。わかっている。わかってはいるが、冬馬がものをねだる翔太に勝てたことは、一度だってない。
 有無を言わせないとばかりに冬馬を見上げて瞳を閉じる翔太には恋人ながら感心してしまう。頬か額か、と言っていたのに唇にキスが降りてくることを期待している格好だ。勝てるわけがない。周りを見渡して人がいないことを確認すると、冬馬は唇を舐めた。
「…え?」
 唇を落とした頬を手のひらで抑えて目を丸くする翔太に冬馬はくつくつと笑った。その瞬間を狙ってもう一度唇を寄せる。ほんの一瞬だけ、掠める程度にだが期待されていた場所へと触れた。
 翔太が望むものはなんでも与えてやりたいと思うが、手のひらの上で踊るだけというのは性に合わない。翻弄するのもされるのもお互いさまだ。
 何をされたのか理解して、真っ赤になった翔太に冬馬は満足気に微笑んだ。
「かわいい顔してんなあ、翔太」
 そんな追い打ちをかけてやると、翔太の頬がさらに色濃くなった。羞恥に耐えられなくなったのか冬馬の肩に顔をうずめてうんうんと唸っている。あやすように頭を撫でてやれば、翔太は不機嫌な猫のように鳴いた。楽しい。こうなってしまえばもう完全に冬馬のペースだ。
「なんだよ。嫌だったのか?」
「ちがっ…嬉しいけど…! うう、とうまくんのいじわる…!」
 そんなかわいいことをかわいい顔をして言う翔太が悪い。もっと意地悪だと言われたくなって、冬馬はめったに口にすることがない好きだとか、かわいいだとかいう甘い言葉を恋人の赤くなった耳に浴びせることにした。


 喜んで行くよ、という北斗からの返信を確認してスマートフォンから目を離す。
 ガタンガタンと揺れる箱の中、隣に座っている翔太はとっくの昔に冬馬の肩に頭を預けていた。起こせなかったときは背負って帰るか、と最悪の想定をしながら抱えていた紙袋を覗き込む。教科書の間に挟まっていた白い封筒を引っ張り上げて、冬馬は中身を取り出した。
「…いい写真じゃねーか」
 さすが国民的弟アイドルとして売り出していただけのことはある。涙は女の武器というが、翔太の武器はこの笑顔だろう。いや、こいつは泣き落としを使うこともあったか。そうされる前にほだされてしまうからすっかり忘れていた。
 きっと翔太は卒業アルバムの中で笑顔など浮かべていないだろう。北斗あたりはもったいないと言うだろうか。冬馬はそれでいいと思った。誰も見向きもしないような花壇で、花に囲まれて笑う翔太がいる。それだけで十分だった。
「春が楽しみだな」
 すうすうと呑気な寝息を立てる翔太に苦笑して、冬馬は窓の外から差し込む木漏れ日の眩しさに目を細めた。




春呼び人/171201