――冬馬。冬馬。
 名前を呼ばれた。柔らかな身体に抱きしめられて、頭を撫でられる。その人が口にする名前は確かに自分のものなのに、一体どんな声で呼ばれているのかがわからない。
 たぶん、優しくて落ち着いた声だったと思う。
 ――冬馬。
 そう呼ばれるたびに身体から力が抜けていく。
 この名前はそんなに特別な響きをしていただろうか?
「……かあさん?」
 自分の口からこぼれた言葉に、ああこれは夢なんだなと、そう思った。
 夢だと自覚してしまえば、目の前に非現実的な光景が広がる。夕陽が差す神奈川の実家、リビングの中心。幼い自分が母の膝に抱きついて、頭を撫でられていた。もう声も忘れてしまった人だ。そう告げれば、薄情な子どもだと悲しまれてしまうだろうか。それどころか、恨まれてしまうかもしれない。
 この家で母と過ごした記憶は色褪せている。大事だったはずの記憶は、母と一緒に写っている写真を見て、こんなことがあったんだなと思いを馳せる程度のものになってしまった。
 満面の笑みを浮かべるその人の隣で、同じように笑っている自分。一番近くに居たのに、いつの間にか居なくなってしまった人。居ないことが当たり前になってしまって、ずいぶんと経つ。
「ふふ、冬馬は甘えん坊ね。お母さんのこと、好き?」
 母が嬉しそうに笑う。子どもの自分もつられて笑った。
「うん! おかあさんがいちばんすき!」
 これ以上は見ていられないと、幸せそうな親子から目を逸らした。強くこぶしを握って、唇も噛みしめる。どんな悪夢だと、そんなことを思った。一番好きだなんて、どの口が言ってるんだ。死人に口なしと言うが、さすがにこれはあんまりな内容じゃないか? まだ枕元に立たれて「忘れるな」と直接訴えられるほうがマシだ。
「嬉しい。お母さんも冬馬が大好きよ」
 やめてくれ。母の姿をした幻想が吐き出す言葉を、子どもの姿をした自分が応える言葉を、この光景を。現実にあったやりとりなんじゃないかと思ってしまう。
 もうここに居たくない。罪悪感で押しつぶされそうになりながら、一歩だけ後ずさる。けれど次の瞬間、母の口から続いた言葉に目を見開いた。
「……一緒に居てあげられなくてごめんね」


 けたたましく響くインターフォンの呼び出し音を耳にして、天ヶ瀬冬馬は目を覚ました。
 すぐさま枕元に置いていたスマートフォンをタップして時間を確認する。午前八時過ぎ。起床しようと思っていた時間の四十分も前だ。今日は仕事が昼前にはじまるからと、いつもより遅い時間に目覚ましを設定しておいたのだ。なのに、この音のせいで目が覚めてしまった。
 カーテンの隙間から漏れる日差しの眩しさに目を凝らす。今日は、何か夢を見ていたような気もするが、それすらも吹っ飛んでしまった。
「うっぜえ……」
 諦めるということを知らないのか、鳴り続けるインターフォンに毒を吐く。冬馬は寝返りを打つと掛け布団を思いきり蹴飛ばした。そのままゆっくりと起き上がり、あくびをひとつ噛み殺す。何を面白がっているのかだんだんとリズミカルになっていくその音に、嫌でも犯人がわかってしまった。
 ――翔太のやろう。朝っぱらからなんの用だ。
 玄関に向かう途中、念のためモニターを確認してみたがそこには誰もいない。いたずら好きなのは結構だが時間を考えろ、時間を。……いや、普段ならもう起きている時間だ。ということは、いつもの時間に起きていなかった俺が悪いのか? そんなことを考えながら冬馬は玄関の鍵を開けた。
 ガチャリ。気持ちの良い音と同時に、重たいはずの扉が勢い良く開かれる。
「冬馬君! 今日からしばらく泊めてくれない!?」
 やはり犯人は翔太だった。翔太は両手を大きく広げて冬馬に抱きつくと、開口一番にそう口にした。
「はあっ!? 翔太おまえっ……こんな時間に押しかけといて何勝手なこと言ってんだ!」
 頷いてくれるまでは絶対に離さない、と言わんばかりに力強く抱きしめてくる翔太を、それでも無理やり引き剥がす。
 見れば、翔太は大きなリュックを背負っていた。あれはロケで遠征するときに使っているものじゃなかったか? 怪訝な目で見つめれば翔太は数歩後ずさり、気まずそうに冬馬から視線を逸らした。変装用にかけている眼鏡のレンズが鈍くひかる。
 冬馬は横髪が少しばかり跳ねた自分の頭を掻き、「……翔太」と目の前の少年の名を呼んだ。何も玄関口で話し込むことはないのに、冬馬が何も言わないから翔太も靴を脱ごうとしない。
「さっきの。泊めろっつーのはどういう意味だ?」
 まあ、そのままの意味なんだろうが。理由がわからないことには頷けるものも頷けない。
 翔太はきゅっと唇を結んだあと、観念したように深く息を吐いた。
「……家出してきたの。だから、うちに帰るまで冬馬君ちに泊めてもらえないかなって……」
「家出? なんでまた。おまえんち仲良いだろ」
 冬馬は腕を組みながら翔太の家族を思い浮かべた。
 さすがに父親との面識はないが、翔太の家族は自分と北斗にとても良くしてくれる。特に二番目の姉が北斗の熱烈なファンということもあり、彼女が在宅しているときのもてなしはこちらが一歩引いてしまうほどのものだ。
 いつのことだったか、夕食を馳走になったこともある。そのときだって終始穏やかな空気が流れていた。冬馬の目には、御手洗家の関係は良好に見えた。むしろ翔太は末っ子長男ということもあり、母親や姉たちから猫かわいがりされていたような気もする。
 ……そんな翔太が、家出。
 何が原因でそうなったのか冬馬には想像もできなかった。それが顔に出てしまっていたのかもしれない。考え込んでいた冬馬は翔太に胸元を掴まれて体勢を崩した。
「おい翔太っ」
 とりあえず制してはみるが、翔太は聞く耳を持たない。ぐいぐいとスウェットを引っ張って冬馬を自分の元へ引き寄せてしまう。
「ッ、だから待て、って」
 距離が近づいて、そのまま。唇を奪われた。
「――冬馬君のせいなんだよ?」
 おねがい。泊めてくれるよね?
 離れていった唇が楽しそうに弧を描く。その、有無を言わせない表情に冬馬はぞくりと悪寒を感じた。これ以上は踏み込ませないと威圧するような笑み。けれど、甘くて優しい瞳――。
 御手洗翔太という少年は意図してこういう顔をする。たまにしか見ることがない分、冬馬はその表情に必ずと言って良いほど気圧されてしまうのだ。
「つーか、おまえのそれ。俺のせいなのかよ……」
 どういうことだ。追及したくてたまらなかったが、翔太はこれ以上自分の家出事情について話すつもりはないのだろう。疑問は尽きないが、冬馬もその気が失せてしまった。
 ほんの一瞬だけ触れられた唇を親指で拭って「上がれ」と声をかける。踵を返してリビングに向かっていると「冬馬君」と、すぐ後ろにいた翔太から呼び止められた。
「これ。母さんが冬馬君にって」
 どこに持っていたのか、すっと差し出された紙袋を受け取る。中を覗き込めば、そこには洗剤や調味料、缶詰とレトルトパックの食品が詰め込まれていた。頭の上にハテナマークが浮かぶ。
「……おまえ、家出してきたんだよな?」
「冬馬君ちか北斗君ちにお世話になってくるとは言ったかな」
 果たしてそれは家出と呼べるのだろうか。
 ……まあ、行き先を告げて出てきているなら問題はないか。今度、何か礼になるようなものを持って行かなければ。冬馬は少しだけ頬を緩めた。断ってもきりがないため、御手洗家からの好意はありがたく受け取ることにしている。
「いつも悪いな。助かる」
「母さん世話焼きだからね。心配なんだよ。自分の子どもと歳変わんない冬馬君が一人暮らししてるのがさ」
「それを言うなら北斗もだろ」
 翔太の姉は二十歳を超えていたはずだ。だから自分だけが特別じゃない。呆れて口にすると翔太は「ほんとうにね」と反対の手に持っていた紙袋を掲げて笑った。
「これ、北斗君の分もあるんだよ。事務所に着いたら渡さなくちゃね」
 きっと中身は似たようなものなのだろう。もしかしたら二番目の姉が北斗にだけは何か特別な品物を入れているのかもしれない。
 大きなリュックを背中から降ろしてベッドに寝転んだ翔太に「寝るなよ」と冬馬は釘を刺した。「大丈夫」そのはっきりとした返事にひとまず安心する。仕事前の寝起きは悪くないが、誤差の範囲だ。朝っぱらから翔太を起こしたくはない。
 やれやれと受け取った紙袋をキッチンの隅に置いて、冬馬は身支度を済ませるため洗面所に向かった。


 跳ねた寝癖を整えて、翔太がほんとうに眠っていないかを確認すると、冬馬はエプロンをつけながらキッチンに立った。冷蔵庫を開けて、そういえば牛乳の賞味期限がもうすぐだったなと思い出す。
「翔太ー、おまえ朝飯は食ってきたのか?」
「ううん。冬馬君のパンケーキ、あの卵とベーコンが乗ってるやつが食べたいなあ」
「あー……あれか。おまえも飽きねえな。何枚食うんだ?」
「んーとね、三枚」
「わかった」
 牛乳と卵、それからベーコンとプチトマトを取り出して冷蔵庫を閉める。すぐ隣の戸棚を開けて、数種類並んでいるパンケーキミックスのうち、甘くなく焼いても膨らまないタイプのものを選んだ。
 ――余談だが、冬馬は今パンケーキ作りにはまっている。
 はまっているというか、翔太に食べたいと言われて作りはじめて、抜け出せなくなっている。凝ったものでなければ少ない材料に加え、単純作業で作ることができるところが気に入っていた。ある意味、重宝していると言っても良い。
 そのとき翔太が要望したパンケーキは専門店に女子が何時間も並んで写真を撮るような、ふわふわとしていて厚みがあるものだった。冬馬はまず、ネットでレシピを調べてホットケーキミックスを使いスフレパンケーキを作った。見た目に関しては及第点だったと思う。けれど、味はどうしてもホットケーキ寄りになってしまっていた。「……ちょっと違うかも」そんな翔太の言葉に頷いたことを覚えている。
「ねえ冬馬君。今度僕と一緒にパンケーキ食べに行こうよ」
 次は小麦粉から作ってみるか、とスマートフォンを片手にレシピを漁っていた冬馬にそう提案したのは翔太だった。
「こういうのって、ほんものを食べてみないとわからないと思うんだよね。味とか、食べたら口の中でどうなっちゃうのかとかさ。……いい考えでしょ?」
 両手で頬杖をついた翔太に微笑まれて、冬馬はため息をつくことしかできなかった。

 目の前に広がるパンケーキの山にごくりと息を呑んだのは、そんな会話をしてからほんの数日経った日のことだ。仕事が終わったあと、冬馬は翔太に手を引かれてその店の中に引きずり込まれた。
 冬馬と翔太を見た店員が「あっ」と声を上げたが、それを人差し指で制したのは翔太のほうだった。素顔に眼鏡をかけただけの――冬場はこれに帽子もかぶるが――簡単な変装だ。人混みに紛れてしまえばそうでもないが、じっくりと観察されてしまえば知る人には見抜かれてしまう。
「このお店、姉さんが教えてくれたんだよ」
 パステルカラーで彩られた女子向けの店内。居心地の悪さに頬を赤くした冬馬に翔太は耳打ちして、いたずらが成功した子どものように目尻を細めてみせた。
 スイーツを提供する店というのはどうしてこうもかわいらしい装飾をしているのだろう。甘いものが好きなのに、店がこんなありさまでは男は羞恥が邪魔をして入ることもできない。翔太のすごいところはこういう場所にも臆せず踏み込んで行くところだ。女性に囲まれて生活してきたからこそ、できることなのかもしれない。真剣な表情でメニューを睨みつける翔太を見つめながら、冬馬は透明なグラスに口をつけた。
「うーん……。イチゴとチョコ、どっちもおいしそう」
「食いたいなら両方頼めばいいだろ。俺はなんでもいい」
「ほんと? じゃあ冬馬君はイチゴのやつでいい? 一口もらってもいい?」
「おう」
「ありがとー冬馬君! 僕のも一口あげる」
 注文が終わってからも、冬馬は落ち着かない心地でいた。自分一人だったなら絶対に足を運ぶことはなかったはずの店の中で、翔太と向かい合いパンケーキなんて代物を食べようとしている。あまりに現実感がなかった。けれど、店員によって運ばれてきた宝石箱のような皿に、これは現実なのだと嫌でも思い知らされた。
「こういうの、フォトジェニックって言うんだって」
 まだ形の崩れていない宝の山をスマートフォンで撮影しながら翔太が呟いた。「姉さんたちに自慢するんだー」なんて言って上機嫌な翔太を前に、冬馬は言葉の意味がわからず首を傾げていたが、翔太は最後までその意味を教えてくれなかった。
 とろりとした生クリームに、小さくカットされたイチゴ。ちりばめられたブルーベリーとミントの葉。皿全体に回しかけられた赤いジャムに、真っ白な粉砂糖はまるで雪みたいだ。斜めに重なった三枚のパンケーキをフォークの背で押すと弾力なく沈んでいく。北斗の家にあるでかいクッションみたいだな、と思いながらナイフを差し込んで切り分ける。フォークの上、クリームと一緒に乗せた。
 さて、これは一体どれほどの甘さなのだろうか。甘いものは嫌いじゃないが、甘すぎるものは苦手だ。冬馬は意を決して頬張った。
「あ、甘くねえ……」
「ていうか、ちょっぴり塩っ気あるかも?」
「ああ。クリームのほうが甘いから、こっちの甘さを抑えてんだな」
「食感もふわふわって言うよりはもちもちしてるよね。うん、おいしい」
「食い応えもあるしな。これ食ったら晩飯入らねえわ」
「ええっ!? ご飯は別腹って言わない?」
「言わねえよ。別腹なのはデザートだけにしとけ」
 冬馬は苦笑しながら少し大きめに切ったパンケーキの上にイチゴとクリーム、ついでにブルーベリーも器用に乗せると、こぼれ落ちないようにフォークを横から刺して掬った。
 左手を添えながらそれを目の前に差し出すと、翔太は待ってましたとばかりに花咲くような笑顔を浮かべた。「あーん」と。開かれた口の中にパンケーキを放り込めば翔太はきゅっと瞳を閉じて、ふるふると何かに耐えるように身体を震わせた。
「んーっ! あっまーい! おいしいっ!」
「そりゃよかった」
 そのまま、手にしていたフォークで翔太の皿に乗っているパンケーキを切り取る。輪切りにされたバナナとまばらに振りかけられたナッツ。キャラメルでコーティングされているのかその色は濃い。そして、これでもかと言うほどかけられたチョコレートソースと生クリームのコントラストが目を引いた。こちらのパンケーキは四枚並んでいて、おまけにアイスクリームまで乗っている。
 切り取ったパンケーキをフォークで刺して、次にチョコレートがかかったバナナをひとつだけ捕まえる。おいしさに酔いしれていた翔太が「あ!」と声を上げたとき、それらはすでに冬馬の口の中だった。
「……なんだよ。一口だけしか取ってねえだろ」
「残念。僕も冬馬君に『あーん』してあげたかったのに」
「なっ……で、できるかそんなもん!」
 顔を赤くして声を荒らげる冬馬に翔太はでも、と続ける。
「北斗君は僕が『あーん』ってしたら喜んでくれるよ?」
「あいつと一緒にするんじゃねえ! 俺はそういうの柄じゃねえんだよっ」
「僕にはしてくれるのに? 変な冬馬君」
 ぱくり。アイスクリームだけを掬って食べる翔太に冬馬はぐっと息を呑んだ。
 確かに、冬馬は良く翔太にものを分け与える。食べてみたいなあという視線に根負けするときもあれば、最初の一口目から翔太の口に運ぶこともある。そうするだけで「おいしい!」と言って表情を緩める翔太を見ることができるからだ。ものを食べている翔太は心から幸せそうで、見ていて飽きない。それが、自分が与えたものを頬張る姿なら尚更だ。こんなこと、気恥ずかしくて伝える気にもならないが。
「まあ、いやだって言われても食べさせたいときは無理やり突っ込むだけなんだけどね」
「食べさせたいっつーか作らせたいときだろ」
「あれ、ばれてた?」
「『これおいしいから今度作ってよ!』って毎回言われたらさすがに気づくぜ」
「それでほんとに作ってくれるんだもん。お母さんだってここまで甘くないよ」
「うっせ」
 手と口を動かしながらとりとめのない会話を続ける。
 実際、冬馬が翔太の手からものを食べたことは片手で数えるほどしかない。不意打ちで押しつけられたとき以外は、たとえ二人きりでの食事だろうが冬馬が口を開くことはない。そんなことで気分を害する相手ではないから、このままで良いと思っている。
 きっと冬馬は与えられることに向かないのだ。与える側のほうが性に合っている。翔太はというと、与えられる側の人間だ。出逢ってから今まで、ずっとそういう生き物だった。
「……どう? 冬馬君、作れそう?」
 四枚目のパンケーキにナイフを入れながら翔太が問う。冬馬は空になった皿を眺めながら、ミルクだけを落としたホットコーヒーを啜った。
「ここで食ってんのにまだ俺に作らせる気なのかよ」
「もちろん。なんのために来たのか忘れちゃった?」
「忘れちゃねえが、おまえもわかんねえやつだな……」
 そんなことを言ってはみたものの、会計時、レジの横に置いてあったパンケーキミックスについ手が伸びてしまった。まあ良いか。そんな気持ちで手に取って一緒に精算を済ませてしまう。
 作り方、焼き方、トッピング例。それらが乗った一枚のレシピを受け取って、冬馬と翔太は店をあとにした。店員からサインを求められたが、それは丁重に断った。
 帰り道、隣を歩く翔太が冬馬の顔を覗き込んで微笑む。
「やっぱり甘いね。冬馬君」
 初めて逢った日のような表情。わかりやすいようでわかりにくいのがこの男の特徴だ。裏表がある性格ではないが、表に出ているものがすべてとは思えない。
 まるで水のようだと冬馬は思う。掴もうとしても指の間からすり抜けていく。掴むことができないから、どういうかたちをしているのかわからない。
 常に穏やかで、時に激的で、まさに型破り。
 いつもこうして人の心を掴んできたのだろう。人心掌握には及ばないが、似たようなものだと思う。
「――だから好きなんだよ」
 もう何十回と言われたその言葉を、冬馬は今回も聞き流した。一ヶ月ほど前の話だ。


 フライパンをふたつ用意して、パンケーキとベーコンを分けて焼く。専門店で出てくるようなものを作ろうとするなら、ホットプレートを使って温度も確認しながら焼くのが良いのだが、今作っているものはいわゆるお食事パンケーキなのでフライパンで済ましてしまう。
 パンケーキが一枚焼けたら皿に乗せて、その上にカリカリに焼いたベーコンを置く。それを二回繰り返したところで冬馬は卵をフライパンに落とした。端にプチトマトも転がして一緒に焼いてしまう。水を差し、蓋をすればその中でパチパチと油が弾ける音がした。食欲をかきたてる音を聴きながら、冬馬はあくびをひとつだけこぼして、生地を作るときにカップに注いでいた牛乳を飲んだ。この工程にも慣れたものだ。
 きつね色に焼けた三枚目のパンケーキを同じように重ねて、一回り大きな目玉焼きを覆いかぶせた。そこへ仕上げとばかりにブラックペッパーを一振りすれば、翔太お気に入りの冬馬特製ベーコンエッグパンケーキの出来上がりだ。
 ナイフとフォークを手に、きれいに積み上げたそれが倒れてしまわないよう注意しながら洋室へと運ぶ。
 ベッドに寝転んだままの翔太を呼べば、その身体はむくりと起き上がった。途中ではずしてしまったのか、眼鏡は枕元――冬馬のスマートフォンの上に置かれている。あれはもともと冬馬がかけていた眼鏡だったが、翔太がいたずら半分でかけて帰ってしまった日から翔太のものになっていた。
「うわあ、おいしそう……って、プチトマト乗ってるし!」
「おら。文句言わずにさっさと食っちまえ」
「冬馬君の分は?」
「今焼いてる。飲みもん牛乳でいいか?」
「いいけど……あれ? オレンジジュースってまだ入ってなかったっけ」
 覚えていたのか。投げられた言葉に冬馬は苦い顔をした。
「悪い。あれは凍らせて残りはゼリーにしちまった」
「ゼリー? それって僕が食べてもいいやつ?」
「おう。つっても初めて作ったやつだからな。上手くできてるかわかんねえぞ」
「いいよ。ぜんぜん食べちゃう。えへへ、いただきまーす」
 定位置に座って両手を合わせた翔太に冬馬は「ちょっと待ってろ」と、それだけを告げてキッチンに戻った。放置していたパンケーキをひっくり返してから冷蔵庫を開けると、透明なボウルに入ったオレンジ色が見えた。それを牛乳と一緒に取り出す。
 パックで買ったは良いものの、自分一人だと最後まで飲みきれる気がしなかったオレンジジュース。製氷皿に乗った分は氷に、乗らなかった分はゼリーにしてしまった。ワインに溶かせば簡易的なサングリアになると書いてあったから、氷は北斗用。ぜんぶ凍らせてシャーベットにするのも悪くないと思ったが、製氷皿も冷凍庫の空きスペースも足りなかった。ならばと、ゼリーにしてみたのだ。
「おお……! ちゃんと固まってんな」
 ボウルを両手で持って左右に振ると、中のゼリーはふるふると揺れた。味はともかく見た目は完璧だ。
 スプーンで一口だけ掬って味見する。十分に冷えたそれは冬馬の口の中を潤してくれた。甘くはないが、柑橘系のさっぱりとした味があとを引く。おいしい。次に作るときはサイダーなんかを使って二層のゼリーにしても良いのかもしれない。
「上出来だぜっ」
 ゼリーを小皿に取り分けて、翔太が使っているカップに牛乳を注ぐ。それを運べば、またも「おいしそう」と喜ばれた。
 料理なんて、父と二人暮らしをする中で身につけた技術でしかない。その父も家を空けてしまい、冬馬が誰かに料理を振る舞う機会は格段に減ってしまった。けれど、北斗も翔太も冬馬が作る料理をおいしいと笑って食べてくれるから、止まらなくなってしまう。食べたいと言われたものもつい作ってしまう。翔太には「甘い」と指摘されたが、そういうものではないと冬馬は思っている。喜ばれると知っているから作っている。喜ばせたいと思っているから作っている。打算も良いところだ。
 冬馬自身は食事にこだわりがない。食べられるものならなんでも良い。自分一人なら、食べなくたって良い。自分が料理と相性が良いことは否定しないが。
 再びキッチンに戻り、コンロの火を止めてパンケーキを一枚とベーコン、目玉焼きを皿の上に乗せた。翔太の分と違い、プチトマトは生のまま。それをひとつだけ摘むと冬馬は自分の口の中に放り込んだ。
 ……今日だって、翔太が訪れなければ朝食を作ろうだなんて気にはならなかっただろう。冬馬は基本的に朝食をとらない。そういう生活が数年前から続いている。自分の分を用意したのは翔太が居るからだ。そうしないと「冬馬君は食べないの?」と不思議そうな視線を送られるからだ。
 家族が多いためか、末っ子であるためか、翔太は一人での食事が好きではないらしい。食事は誰かとするもの、という考えが身についている。
 それはとても良いことだと、冬馬は思っていた。

「うそっ、冬馬君それだけなの? 少なくない?」
 テーブルの上に置いた皿の中身を見て翔太が驚きの声を上げた。翔太の皿のほうは、冬馬が来るのを待っていたのかあまり量が減っていない。
「……普通だろ。おまえが朝っぱらから食いすぎなんだよ」
「遠慮して三枚にしたんだけどね。ほんとうなら五枚は食べれたんだから」
「牛乳使い切ったからおかわりはねえぞ。ゼリーで我慢しとけ」
「はーい」
 目玉焼きにナイフを入れると、黄身が割れてとろりとした中身がベーコンとパンケーキの上に広がる。我ながら良い焼き加減だ。冬馬は満足気に微笑んで、パンケーキを食べはじめた。
「……つーかおまえ。泊まるっていつまで泊まっていくつもりなんだ?」
「えーと……一週間くらい?」
「長え! 帰れ!」
「わかってないなあ冬馬君。これは家出なんだよ? 僕は今日、冬馬君ちにお泊りしに来たわけじゃないんだよ?」
「知ってるか翔太。家出っつーのはな、家族に行き先を伝えて出てくるもんじゃねえんだよ」
 ――家出。その行為には冬馬も覚えがある。
 あれは小学六年生の頃だったか。父と喧嘩をして「家出してやる!」なんて宣言をして荷物をまとめたことがあった。結論を言えばその家出は失敗に終わったのだが、あのときの自分は本気で実行するつもりでいた。財布の中身をすべて切符に変えて、行けるところまで行こうと思っていた。
 喧嘩の内容なんて覚えていない。覚えていることと言えば、リュックに荷物をまとめたことと、遠くに行こうと考えていたことだけだ。それからも父とは何回か喧嘩をしたが、家出をしようとしたことは後にも先にもこの一回だけだった。
 翔太は――本人はこれを『家出』なんて呼んでいるが、要するに気まずくて家に帰りたくないだけなのだろう。その原因はどうやら自分にあるようだし、責任を感じていないわけではない。けれど、理由もわからないのにそこまでの期間この家に泊めてやるつもりもない。
 そういえばと、冬馬は食事の手を止めてベッドに向かった。正確には自身のスマートフォンの元に向かった。眼鏡の下敷きになっているそれを手に持ってロックを解除する。
「……冬馬君? どうしたの?」
 訝しむ翔太の言葉を無視して、慣れた手つきで画面を操作する。開いたのはスケジュール管理アプリだった。冬馬はここに自分の分と、北斗と翔太のスケジュールを入力している。
「――翔太。おまえやっぱり明日帰れ」
「なんで!?」
「明日、夜にレッスン室借りてんだよ。帰ってくんの遅えし、飯の準備もできねえから」
「……そっか。舞台の本番、来月だもんね。じゃあ明日は北斗君ちに行こっかなあ」
「いや帰れよ」
 どうしても帰りたくないらしい。「あとで頼んでみよっと」なんてことを楽観的に呟く翔太に冬馬はため息をついた。これはもう、明日は北斗に預けて、家出の理由を聞き出すよう伝えておくほうが利口なのかもしれない。
 手のひらの中の画面に視線を落とす。明日の夕方、北斗と翔太の予定はラジオの収録だ。北斗の持ち番組――伊集院北斗のエンジェル☆キス。翔太はこのラジオに隔週で参加している。冬馬はめったに参加しないが、冬馬が居ない回のほうが冬馬の話題で盛り上がるという、天ヶ瀬冬馬ファン必聴のラジオだ。これは北斗と翔太が冬馬のことを面白おかしく語るせいなのだが、それでファンが喜んでいるのならと、二人を咎めたことはない。人に聞かせても問題ないような、当たり障りのないことしか話していないということもある。
 今回の家出騒動など、何年先に語られることになるのだろうか。何年先と言わず、次に参加するときにうっかりこぼしてしまいたい。もちろん、円満解決すればの話だが。
「ほらほら冬馬君。突っ立ってないで早く食べちゃおう」
 手招きをされて重い足取りで席に戻った。何食わぬ顔をして「おいしいよ?」と冬馬を覗き込んでくる翔太に、自分は要らぬ気苦労をしているのではないかとすら考えてしまう。
 半月になったパンケーキをさらに小さくして口に運びながら、冬馬は正面に座る翔太を盗み見た。黙々と食べる姿につい見入ってしまう。
 翔太は人よりも多く食べるが、意外にもその食べ方は落ち着いていて静かだ。一言で言うのなら品がある。食べ散らかすところなんて一度も見たことがない。今だって、積み重なったパンケーキをきれいに切り分けて食べている。そのペースは早く、残りは少なかった。
 違和感があるとすれば、冬馬と鏡合わせのようにして持つナイフとフォークくらいのものだろう。箸を持っていたって、スプーンを持っていたって、これだけは慣れることができない。翔太と一緒に食事をとるとき、そういえばこいつ左利きだったな、と冬馬は毎回のように思ってしまうのだ。
「……ん、ゼリーもおいしい。また作ってよ。今度はマンゴーゼリーとかさ」
「マンゴーならプリンにしたほうがうまいんじゃねえの?」
「それってどっちも作ってくれるってこと?」
 きらきらと期待に満ちた眼差しに「作らねえよ」と返事をして、テーブルの上に肘を置いて頬杖をついた。……けれども、まあ、自分のことは自分が一番わかっている。悪態をついてみせたところできっと作ってしまうのだろう。仕方ねえから作ってやったぞ、というような顔をして。そしてそれは翔太も理解していることなのだ。その証拠に、素直じゃないなあ、とそんなことを言いたげな笑みを向けられる。
「――ったく。笑ってんなよ」
「えー? なんのことだかわかんない」
 翔太は最後の一匙を丁寧に掬うと、名残惜し気もなく口の中に隠してしまった。


「へえ。そんなことがあったんだ」
 笑みを含んだ北斗の言葉に対して、冬馬は嫌な顔を隠しもせずに「面白がってんじゃねえよ」と返した。ほんとうは足のつま先で脛の辺りを小突いてやりたかったが、今は借り物の衣装に身を包んでいるため、ぐっと気持ちを抑える。
 今朝、翔太が荷物をまとめて家まで来たこと。どうやらその原因が自分にあるらしいということ。朝食にパンケーキを焼いたこと。夕食がハンバーグに決まったこと。明日、弁当を作ってほしいと言われたこと――。冬馬はそんなことをつらつらと語っただけなのだ。同情されるならまだしも、微笑まれるのは何かが違うと思う。
「翔太の家出の原因、マジで心当たりないの? 冬馬」
「おう。翔太んちなんてもう滅多に行かねえしな」
「まあ、そこは俺も気になるところだし、聞き出せるようがんばってはみるけど……翔太だからなあ」
 顎に手を当てて困ったような表情を浮かべた北斗に冬馬は訝った。相手が北斗だからこそ翔太も口を開くのではと思っていたのだが、そういうわけではないのだろうか。
 北斗と翔太は仲が良い。兄弟というものを知らない冬馬が二人を見てほんとうの兄弟みたいだと思うほどだ。翔太は北斗に対してあからさまに甘えてみせるし、北斗も北斗で、翔太にはよくものを買い与えている印象がある。長男と末っ子同士、相性が良いのかもしれない。
 さっきだって、翔太は北斗へ生活用品が入った紙袋を手渡しながら「明日、北斗君ちに泊まってもいい?」と了承を得ていた。翔太の頼みに北斗は自分の予定を確認することもなく、理由を尋ねることもなく、即座に「いいよ」とふたつ返事をしてみせたのだ。二言目には『エンジェルちゃん』『女の子との予定がいっぱい』などと言う男が、だ。
 相手が冬馬だったとしても同じ言葉を返してくれたのだろうが、それを抜きにしたって北斗はつくづく身内に甘い。自分たちに甘いとわかっているから、翔太は北斗の予定を変更させないよう必ず前日までに確認を取る。今朝、北斗の家ではなく冬馬の家に来たのもこれが理由だろう。そうでなくとも翔太から「こないだ北斗君ちに突撃したら上半身裸で出てきたことがあってさー」とこぼされたことがある。自衛も兼ねているのだ。
「いいよー、御手洗くん。次はワンちゃんと一緒に上目遣いもらってもいいかな?」
 少し離れた場所でシャッターを切る音がする。翔太はタレント犬のポメラニアンを抱き、カメラマンに要求された笑みを浮かべていた。その光景を北斗と並んで見つめながら冬馬はガシガシと後頭部を掻く。ワックスのせいか髪が少しだけ固まっていた。
 今日の仕事はこの撮影とインタビューだけだった。女性向けのファッション雑誌。編集がジュピターのファンを公言していて、毎月結構なページ数の特集を組んでくれる。一年契約の予定だが、ジュピターを起用したことによる雑誌の売上は上々らしく、もしかしたら契期が伸びるかもしれないとプロデューサーが喜んでいた。
 来月の特集テーマは『恋人と休日の散歩』だ。この手の雑誌にはめずらしく実際に住宅街に出ての撮影。リードに繋がれたポメラニアンは吠えることもなく大人しい。北斗の撮影が一番に終わって、今は翔太の番だった。冬馬は最後らしい。
 雑誌の読者は二十代の女性が中心なので、当然その年代に向けたアプローチをとることになる。甘い表情を惜しげもなくカメラに向ける北斗に、年下男子であることを全面に押し出した翔太。冬馬も十代だが、どちらかと言えば北斗のような画を求められるだろう。
「じゃあ次、片足上げて回ってみて。リードは両手に持ってね。絡まないように」
「はーい」
 この仕事に関して言えば、ポーズは疎か表情すら、自分たちの意志で決められることは何ひとつない。まあ、そういうものだろうなと冬馬は思っている。仮に「恋人と散歩しているときの顔をしてよ」なんて注文をされたところで上手くこなせる自信もなかった。それはもう過去に経験していることだった。
 冬馬に恋人はいない。
 好きだと言って、キスを仕掛けてくる相手なら視線の先に居るのだが、それだけだ。自分たちは恋人同士ではない。冬馬の記憶が確かなら「付き合ってほしい」とも「恋人になってほしい」とも言われたことはなかった。言った覚えもなかった。
 その相手――翔太の意図を掴みあぐねているところもある。翔太の言葉と行動をいたずらだとも、からかわれているとも思っていない。そう勘繰る時期はとっくに過ぎてしまった。厄介なのは、冬馬はそんな翔太のことが決して嫌いではないということだ。さすがに恋愛感情とまではいかないが、流されてしまう程度の情はある。
 例えば……そう。北斗に好きだと言われてキスを迫られたらどうだろう。冬馬はペットボトルに口をつけて中身を煽る北斗を見つめた。想像の域を出ないが、きっと北斗のことも受け入れてしまうような予感がする。北斗を拒絶する自分をイメージすることができない。翔太と同じように、北斗にだって情はあるのだから。
 そうだ。北斗。翔太は北斗ともキスをしているのだろうか。今まで考えもしていなかった可能性だが、冬馬としているのならあり得ない話ではない。翔太は北斗のことだって好きだろう。――でも、それはそれで面白くない。よくわからないけれど。なんとなくではあるけれど。そんな風に感じるなんて、翔太にキスをされ過ぎておかしくなってしまったのかもしれない。冬馬は小さく舌打ちをした。
「何? どうかした?」
「……いや。明日の弁当、おまえの分も作ろうと思ってよ。なんか食いたいもんあるか?」
 北斗からさり気なく目を逸らして、冬馬は訊こうと思っていたことを口にした。明日の昼食に弁当を作ってほしいという翔太の言葉に、夕食のハンバーグを入れても良いのなら、と冬馬はしぶしぶ頷いていたのだ。
「冬馬の弁当? 久しぶりだよね。俺はなんでも食べるよ」
「なんでもって、それが一番困んだよなあ」
「ごめん。でも冬馬が作るものはなんだっておいしいから、食べたいものが選べないんだって」
「たかが弁当だろ。何言ってんだおまえ」
 大げさなことを口にする北斗にこちらも大げさなため息をついてみせる。弁当を作ると言っても、すべてが手作りというわけではない。冷凍食品だって出来合いのものだって入れる。けれど北斗なら、ただの白飯ですらおいしいおいしいと言いながら食べてくれるような気がして――冬馬はそんな馬鹿なことがあってたまるかと妄想を打ち消すよう首を横に振った。
 ……待てよ、と冬馬は考える。北斗が最後に家に来たのはいつだったか。今朝だってごく自然なことのように翔太は居座っていたが、あの部屋で一緒に食事をとったのは久しぶりのことだった。
 ほとんど毎日顔を合わせているとは言え、昔と違って個人の仕事も増えた。仕事が忙しくなればそれだけプライベートを共にする時間が減る。
 黒井の元に居た頃は、黒井がそういう方針だったのか知らないがジュピターに単独の仕事が回ってきたことはない。事務所を辞めて自分たちの力だけでやっていた頃もずっと三人一緒だった。……だからだろうか。ふとした瞬間、寂しいと思ってしまう。寂しいと、思えるようになった。二人がそれだけの存在になってしまった。
 冬馬は視線を落として地面を見つめた。
「……なあ北斗。おまえも近いうちに飯食いに来い。こないだワイン置いてっただろ」
「ん? ああ。あれね。冬馬、飲んでないよね?」
「ばっ、飲まねえよ! っ……オレンジジュースの使い道を考えてたんだが、凍らせて入れたらサングリアになるって書いてあって、作ってみたんだ。おまえの口に合うとは思ってねえけど、せっかくだし……」
 言い訳じみたことを口にする冬馬に北斗はくすりと笑う。
「俺もちょうど冬馬のカレーが食べたいなって思ってたところ。もちろんサングリアと一緒にね」
 ぱちんとウインク混じりにそう言われて、冬馬は「おう、任せろ!」と歯を見せて笑った。作ろうと思えばなんでも作れるが、やはりカレーを所望されると嬉しくなる。
 カレーは冬馬が数ある料理の中でも一番手をかけて、時間をかけて。これでもかと極め上げた一品なのだ。レストラン風に言うのならカレーは冬馬のスペシャリテだった。けれど、きっともっとおいしくなるはずだ。最高のカレーを北斗と翔太に振る舞うことは冬馬自身が望んでいるところでもあった。
 ……カレー。食わせてえな。
 三人の予定が空いている日はいつだったか、とスケジュールを思い出そうとしたそのとき。
「冬馬くーん! 翔太くん、そろそろ終わりそうだから準備に入ってもらってもいいー?」
 スタイリストに名前を呼ばれて冬馬は我に返った。
「っす。すぐ行きます!」
 冬馬は小走りで彼女の元へ向かいながら、やっちまった、とばつが悪そうな顔をした。髪が崩れるから暴れないで、と小言が多いのが彼女の特徴だ。佐藤という名字の若い女性だが、昔からの顔馴染みということもあり、変に緊張することもない。
「あー。髪触ったでしょ。せっかく固めたのにちょっとよれちゃってる」
 やはりばれてしまった。佐藤はシザーバッグからワックスを取り出すと冬馬の髪を整えはじめた。
「や……はい。スンマセン」
「違和感でもあった? 冬馬くんって普段からワックス使わないし、慣れないだろうけど撮影の間は我慢してね」
 仕事人らしくちゃきちゃきと髪を整え終えると、佐藤は正面と横から、冬馬の髪型を数秒眺めて「よし! 格好いい!」と満足気に声を上げた。今回は左側の前髪と横髪を後ろに流すようアップにされている。テーマに合わせて髪型もそれらしいものに仕上げられていた。あの北斗だって前髪を遊ばせている。髪型なんてなんでも良いだろ、と冬馬は思ってしまうのだが、そういう訳にもいかないらしい。
『変えちゃったほうが女子受けするからねー。特に翔太くんはいじりがいがあるかな。髪型ひとつであんなに雰囲気が変わる子ってそうそういないもん』
 撮影がはじまる前、冬馬の髪をセットしながら雑談の中で佐藤はそう言っていた。そんな翔太は今日、髪を降ろしている。前髪だけが真ん中できれいに分けられていて、額が見えていた。
 ――雰囲気が変わる、か。
 冬馬にはよくわからない感覚だった。どんな髪型をしていたって翔太は翔太だろう。もしかするとこれは女性にしかわからない感覚なのかもしれない。
「おまたせ天ヶ瀬くん。今回カメラを担当させてもらってる川島です。いやあー! 噂には聞いてたんだけど、いいね、ジュピター。一度撮りたいと思ってたんだ」
 翔太と入れ替わるように名前を呼ばれて、冬馬は撮影場所に移動していた。途中、翔太とすれ違ったとき「冬馬君もがんばってねー」と声をかけられて「楽勝だぜ!」と返した。
 ほらみろ。翔太は翔太だ。
「とりあえず適当に撮っていこうか。この辺を散歩している絵が欲しいな」
「ちょっと走ってみてもいいっすか?」
「いいよ。笑顔は忘れずにね」
 スタッフから手渡されたリードの先には思ったよりも小さなポメラニアンが居た。ハッハッハッと犬特有の呼吸をしながらつぶらな瞳で冬馬のことを見上げている。
 犬。それがどうした。仕事をするパートナーだ。冬馬はその場にしゃがみ込んでポメラニアンの頬をくしゃくしゃと撫でまわした。そうしていると、すぐ隣でカシャリとシャッターを切る音がした。なるほど、この川島というカメラマン。シャッターチャンスは逃さない男らしい。
「っし! 行くか!」
 冬馬はリードを引いて辺りを歩きはじめた。調子が出てきたところで足を速める。カメラには常に笑顔で応えた。
 アイドルとして売り出しているからには何かしらのイメージがつきまとう。デビューしたときから北斗には『アイドル王子』、翔太には『国民的弟』、そして冬馬には『熱血俺様系』というキャッチコピーがついていた。
 これらは黒井の元に居た頃つけられたもので、事務所を移籍してからも有効に活用されている。最も、冬馬の『俺様』はすっかりステージの上でのみ発揮されるようになってしまったのだが。ともかく、役でもない限りファンもこの謳い文句に沿った振る舞いを望んでいるはずなのだ。わかっている。ファンの期待に応えるのが自分たちの役目だ。――けれど。
「天ヶ瀬くん。ここで犬を抱き上げてもらってもいい?」
「……と、こんな感じっすかね」
「うん。そのまま、ちょっと困った顔してみて」
 昔がそうじゃなかったとは言わないが、三人とも今のほうが、より『らしい』表情を出せていると冬馬は思う。歌とダンス以外の仕事も増えて、素の自分たちをファンに見てもらえる機会が増えたからかもしれない。―――もっと、そのきっかけが増えれば良いのに。誰にも言ったことはないが、冬馬はそう考えている。
 キャッチコピーをなぞるのも大事だが、ファンにはもっとたくさんジュピターの魅力を伝えていきたい。これはリーダーとして二人を預かる者の贔屓目なのかもしれないが、北斗も翔太も、怒ったり驚いたり拗ねてみたり。ほんとうに、色んな顔をするのだ。
 冬馬は笑った。
 腕の中に居るポメラニアンに頬を舐められて、それが思いの外くすぐったかった。そんな冬馬を見つめている北斗と翔太の視線には、気づけなかった。


 撮影は滞りなく終了し、三人は撮影現場をあとにした。次はそのまま、喫茶店に転がり込んで雑誌用のインタビューだ。冬馬が出演する舞台の公開が近いということで、その話を多めに載せるように調整するそうだが、特集の内容に沿った話がメインであることに変わりはない。
 恋愛事の質問にはテンプレートな回答を。
 これはアイドルとして活動しはじめた頃、黒井から言いつけられていたことだ。黒井の言葉ではあるが、事実であるため冬馬は今もその通りにしている。特定の相手を意識した答えはアイドル的にはご法度らしい。
「――三人とも、恋人とはどんな所を散歩してみたい?」
「俺は佐々木さんが行きたい所ならどこでも。……ふふ、二人きりになれる静かな場所がいいですね。それこそ丘の上で夜景を見ながら、なんてどうでしょう?」
「北斗くんらしいわね。じゃあ次は冬馬くん」
「振られちゃいましたか……」
 佐々木と呼ばれた記者は小さなノートパソコンをテーブルの上に広げて、素早いタイピングで北斗の言葉を打っていた。北斗の言葉に表情や態度を変えないところはさすがだ。佐々木とはこの雑誌の契約がはじまってから一緒に仕事をするようになったのだが、ジュピターの特集が好評なのは彼女の手腕も影響していると思う。
「俺は……そっすね。普通に街中とか」
「今日の撮影みたいな?」
「そんで買い物したいっす」
 手元のコーラにささったストローをくるくると指先で弄びながら冬馬は答える。
「僕は食べ歩き! 前に冬馬君と北斗君にクレープ買ってきてもらったことがあるんだけど、あれすっごくおいしかったからまた食べたいなー」
「って、こっち見て言うなよ。買わねえよ」
「えー冬馬君のケチ。いいもん、北斗君に頼むから」
「俺? いいよ。あそこのクレープおいしかったしね」
「おい北斗! 翔太を甘やかすな!」
 そんな会話を両脇で繰り広げ出した北斗と翔太にストップをかける。目の前に居た佐々木が手を止めて控えめに笑った。
「あなたたちって、ほんとうに仲が良いのね」
 ――仲が良い。
 それはもう何度言われたかわからない表現だ。仲が悪い、と言われるよりはマシなのかもしれないが、男三人。言われ過ぎもどうかと思う。自分たちとしては普通に接しているだけだと思うのだが、周りはそう思っていないらしい。
「さっきの話、面白かったから載せちゃおうかしら。えっと、冬馬くんと北斗くんが翔太くんにクレープを買ってくれたんだっけ?」
「俺たちが翔太に敵わないってだけの話ですよ。ねえ冬馬?」
「知らねえ」
 ふん、と横を向いて腕を組み北斗の視線から逃れる。けれど、そうすると今度は翔太と目が合ってしまい、冬馬は居心地が悪そうに濡れたグラスを手にした。
 あの会話を事務所でしていたとき、クレープなんて買ってやるつもりはなかった。ただ、クレープ屋の近くを通る用事があって、たまたま隣に北斗がいて、「そういえばここって前に翔太が話してたクレープ屋じゃない?」なんてことを口にしたから、ああこいつ並ぶ気なんだなと、冬馬もしぶしぶ付き合っただけの話なのだ。
「末っ子にはどうしても甘くなっちゃいますね。仲が良く見えるのはそのせいかもしれません」
 柔らかな笑みを浮かべた北斗に、翔太も同じ笑みを返した。やはりこの二人は仲が良い。北斗と翔太の間に流れる空気というか雰囲気というか。そういう生暖かいものに冬馬はどうしたって溶け込むことができずにいる。進んで溶け込みたいと思っているわけでもないが。
「なるほど。あまり意識してなかったけど北斗くんと翔太くんは六つも歳の差があるものね。国民的弟の面目躍如ってところかしら」
「えっへへー」
「さすがって感じですよね。冬馬だって翔太のおねがいに最初は嫌だって言うんですけど、結局頷いちゃうんですよ」
「なっ……北斗っ!」
 余計なこと言うな、と冬馬は噛んでいたストローから口を離して声を上げる。
「――だから俺たち、恋人のおねだりにも弱いんじゃないかなって思います。散歩中だろうがわがままに振り回されたいというか。翔太は逆に振り回しちゃうかもしれませんけど……ほら、そういう茶目っ気も大事でしょう?」
 すらすらと歌うように言葉を並べた北斗に冬馬は目を丸くした。よく喋ると思ったら、そういう方向に話を持っていきたかったのか。
 こういう仕事を受けるたび、北斗の会話運びには毎回舌を巻く。今の冬馬には到底身につけることができないスキルだ。ここはもう任せてしまって問題ないだろう。そのまま佐々木と話し続ける北斗を横目に、冬馬は軽く息を吐いた。
「ねえねえ冬馬君」
 隣に座っている翔太から小声で耳打ちされて「なんだよ」と訝しみながら距離を詰める。
「今日、帰りに買い物するって言ってたよね? せっかくだしクレープ食べに行こうよ。北斗君と三人でさ」
 ……だめ?
 そう首を傾げられて、冬馬はぐっと眉間にしわを寄せた。
 断られるはずがないと自信満々なくせに決定権は相手に委ねる。翔太の悪い癖で、国民的弟と言われている所以だ。これが「行こうよ」じゃなくて「行くからね」という断定形だったら良かったのに。冬馬が付き合わなければいけないように、道を塞いでくれていたら良かったのに。冬馬は翔太から目を逸らして口を開いた。
「北斗が行くっつーんなら、俺も行く」
 食い過ぎて晩飯残すなよ、と続けて冬馬は再びストローを手にした。「じゃあ決まり」なんてことを口にしながらアイスココアを飲む翔太にならって冬馬も黒い液体を飲み込んだ。心なしか、炭酸が抜けているような気がした。
 自分たちはこれからもこうして翔太に振り回され続けるのだろう。わかっている。でも、昔からこうだったわけではない。はじめの頃はお互いのことを知ろうともしていなかった。冬馬にとって北斗と翔太は黒井に選ばれた、同じユニットの、同じ仕事をこなすだけのメンバーだった。
 冬馬と北斗と翔太。プライベートでは絶対友人にならないタイプの三人だ。事実、一緒に仕事をするのだからと上手く関係を保てていた部分がある。それがどうして「仲が良い」とまで言われるようになったのか。きっかけはなんだったのか。まるで思い出せない。その記憶だけ抜け落ちてしまったようだ。
「……ま、とうま。冬馬ってば」
「うおっ!? な、なんだよっ」
 北斗に肩を揺すられて、冬馬はハッとした。
「佐々木さんが舞台の話聞きたいって」
「大丈夫? 疲れてるならちょっと休憩挟もうか?」
「あっ、や、このまま続けてもらって問題ないっす」
 心配そうに覗き込んでくる佐々木の提案に首を振る。
 来月から開演される舞台に冬馬は出演することになっている。主人公である兄が出来の良い弟を憎しみから手にかけてしまうが、後悔の念に駆られて弟そっくりの人形を作りはじめるという、愛憎がテーマの作品だ。冬馬はこの弟役だった。
 生命力に溢れて輝く姿が役と合っていると演出家から褒められた。それから、君には影がまとわりついているね、とも言われた。影。過去が冬馬をそう魅せるのだろうか。黒井と共に歩んだ過去。心無い記者や同業者からは黒い過去だと言われることもある。
 冬馬の夢を踏みにじったのは黒井だったが、冬馬に夢を与えたのも黒井だった。トップアイドル。目指す場所は今も昔も変わらない。
「……俺は一人っ子だから、兄弟の確執とか葛藤とかはよくわからねえけど……でも、」
 信じている人から裏切られるのは悲しい。
 信じている人から信じてもらえないのは、もっと悲しい。
「――見応えのある舞台になってるんで。色んな人に見てもらいたいっすね!」
 閉じていた蓋をこじ開けてしまったような心地だった。
 思い出したいことは思い出せないのに、思い出したくないことに限ってあっさりと浮かび上がってくる。冬馬にとって黒井との過去はかすり傷のようなものだが、その傷の跡が残ってしまっていることに冬馬は気づいていない。
 結局のところ黒井のことを憎めば良いのか憐れめば良いのか、感情の着地点が曖昧なのだ。黒井の考えを理解できるような歳になれば、もっと違ったかたちで決別することができるのかもしれない。だからそのときがくるまで冬馬は蓋をすることにした。優しい記憶でも甘い記憶でもないが、必要な記憶だった。だから心の奥底に大事に閉じておくのだ。
 北斗と翔太に出逢えたこと。ジュピターというユニットが生まれたこと。目的や経緯はともかく、それだけは黒井のおかげに違いないのだから。


 ペタン。ペタン。跳ねつくような音がキッキンに響く。
「冬馬くーん。これいつまでやればいいの? 僕もう疲れちゃった」
「はあ? まだやってたのかよ。丸め終わってんならそこの皿に並べとけ」
「うん……。うえ、手がべたべたする……」
「おまえがやりたいって言ったんだろ」
 使い終わった調理器具を洗っていた冬馬が一歩ずれて場所をあけると、翔太は流れていた水道水で両手についた肉の脂を落としはじめた。
「だって大っきなハンバーグ食べてみたかったんだもん」
「食い意地張ってんなあ」
 大小さまざま。いびつな形のハンバーグのタネを眺めながら冬馬は感心したように呟いた。そのまま皿全体にラップをかけて冷蔵庫で三十分ほど寝かせることにする。本来ならば一時間は寝かせたいところだが、翔太の胃は待ってくれないだろう。手を洗い終わって洋室に向かう翔太に「大人しくしてろよ」と声をかけて、冬馬は再び洗いかけの皿に手を伸ばした。
 翔太に腕を引かれて連れて行かれたクレープ屋は、夕方ということもあって以前並んだときよりも人が少なかった。夕食前だったからかもしれない。数分だけ並んだあと冬馬はイチゴ、北斗はマンゴー、翔太はバナナとチョコレートのクレープを注文した。いつか二人で食べに行ったパンケーキと同じだな、と冬馬は思ったが、翔太がそれに気づいていたのかは微妙なところだ。
 北斗は両手にクレープを持った翔太をスマートフォンで撮影して満足気だった。翔太はというと、手にしていたクレープをあっという間に食べ終えて、零れ落ちそうなクリームと格闘していた冬馬と北斗を「プロデューサーさんにおねがいして今日のブログに載せてもらうね!」なんて笑いながら激写していた。一応「やめろ」と言ったのだが、唇の端に白いクリームをつけた二人の写真は今夜、事務所のブログにアップされてしまうことだろう。
 冬馬はともかく、北斗のファンにとっては貴重な一枚になるに違いない。北斗と個人的に逢っているエンジェルちゃんとやらだって、そんな姿、見たことないに決まっている。
 そう思うと、まあ悪くねえなと思えてしまうのだった。

 今日の夕食のメインはペッパーソースのハンバーグ。副菜として野菜のグラッセを添える。ニンジンとブロッコリー、冷蔵庫に入っていたじゃがいもも一緒に煮てみた。それから玉ねぎとキャベツのコンソメスープ。当然、明日の弁当にも同じものが入る予定だ。多少のアレンジは加えるつもりだが。
 なんとなく。翔太に野菜を食べさせなければという意志が冬馬にはあった。それはもう。まるで使命感のように。
『別に僕、野菜嫌いってわけじゃないんだけど』
 そんな小言を言われてしまいそうだが、実際そうなのだから仕方がない。今朝のプチトマトには「げっ」なんて顔をしていたが。冬馬が知る限り、翔太はなんだって食べる。甘いものも辛いものも、なんでもほどほどに。いたって普通の味覚をしている。なのに翔太には野菜を食べさせたい。
 ……なんでだろうな? 冬馬は首を捻った。
 泡だらけの手を水で流して、スープが入っている鍋の火を止める。エプロンの裾で手を拭きながら翔太の元に向かうと、テーブルの上には開封済みのファンレターがずらりと並んでいた。これはもう読み終えたものなのか、鞄の中から新たな封筒を取り出している。
「それ、今日もらったやつか」
「まあねー。でも悪口なんてひとつも書かれてないよ。冬馬君もそうだったでしょ?」
「おう」
 翔太の隣に腰を降ろして、手にしていたピンク色の可愛らしい便箋を覗き込む。仕事の前に事務所に寄ったとき、冬馬も自分宛てのファンレターを受け取っていたが、それは移動中にすべて目を通し終えていた。
「僕、ファンレターってあんまり好きじゃないんだよね」
「ああ……おまえは昔からそんな感じだったよな」
『先週のミニライブ、翔太くんが楽しそうに踊ってる姿を見ることができてうれしかったです。あたしはジュピターの中で翔太くんが一番好きです。これからも応援してます』
 いかにも女子が書いたような、そんな丸い字が目に留まる。
「俺は好きだぜ。ファンレター」
「知ってる。クローゼットの中に大事にしまい込んであるもんね」
 呆れたような翔太の口ぶりに返す言葉もない。
 冬馬はファンレターが好きだ。翔太が言ったとおり、今までもらったものはすべてファイリングして保管している。ライブ会場でファンの笑顔を見ることも好きだが、言葉を直接届けてもらえる手紙はもっと好きだった。
 黒井がジュピターとファンを接触させない方針を取っていたため、ファンレターが特別だったということもある。齋藤の元に落ち着いて、ジュピターは初めて握手会というものを経験した。新曲のリリースイベントでファンから「帰ってきてくれて嬉しい」「またジュピターのライブに行きたい」「信じて待ってた」「三人が大好き」そんな言葉を涙と笑顔とともにもらったのだが、あれは、良かった。控え室に戻ったあと、またやらせてくれとプロデューサーに頼み込んだくらいだ。
「そっか」
 翔太が呟いた。
「だから冬馬君、好きって言葉に鈍感なんだ」
「……は?」
 視界がぶれる。肩に痛みが走ったと思ったのも束の間。冬馬の唇は柔らかなものに触れていた。すぐ目の前には翔太が居た。触れているものは当然、翔太の唇だった。
「しょ、ぅむッ……!」
 名前を呼ぼうと口を開いたとき、ぬるりとしたものが入ってきた。その何かに言葉と呼吸を塞がれる。逃げようともがいてみたが、肩は両方とも翔太に掴まれていて、肘は床についていて、身動きを取ることができなかった。相手は翔太だ。三つも年下の男。自分のほうが体格も良くて力もあるはずなのに、力を込めてみてもびくりともしない。
 翔太とキスをする。それは良い。もう慣れた。慣れてどうするんだと思うが、慣れてしまったものは仕方がない。けれど、こんなキスは知らない。息ができなくて、溺れそうで。気持ち良さからはずっと遠い。温かいのに苦しいだけのキス。
 なんだこれ! なんだこれ!?
 口の中にいるものを押し出そうと舌を動かしたとき、ざらりと知った感触がして、それが翔太の舌なのだとわかった。どちらのものともわからない、はあはあと熱のこもった吐息が耳に届く。たまに、かちりと歯同士が当たって、そのたびに冬馬はまぶたに力を込めた。舌を動かすたびに唇の端から唾液がこぼれて顎に伝ったが、まるで金属のように冷たかった。
 ……肩を。翔太に押さえつけられているせいでバランスが上手く取れない。腕に力を込めてみた瞬間、冬馬の上半身は肘からずるりと滑り落ちた。
「うわっ」
「いってえ!」
 勢い良く後頭部をぶつけて身悶える。翔太も一緒に崩れ落ちたのか、決して軽くはない身体が冬馬の腹の上に乗っていた。
「……っ……冬馬君」
 顔が近い。頬が赤い。目が潤んでいる。そんな状態の、呼吸も整っていない翔太に名前を呼ばれて、ぴくりと身がこわばった。――怖いのか? 違う。頬に触れた翔太の指先が震えていたから、泣いているのかと思っただけだ。
「好き」
 囁きとともに唇が降りてくる。いつもされているような、触れるだけのキス。唇は、あっけなく離れていった。
「冬馬君もはやく、僕のこと好きになって」
 乞うような声でそれだけを告げると、翔太は冬馬の上から退いて、そそくさと部屋から出て行ってしまった。
 ピシャリと引き戸が閉められて自室に一人きりになる。けれど次の瞬間、閉められたはずの引き戸が開いた。
「さっきのキス! 謝んないから!」
 顔を真っ赤にした翔太が捨て台詞のように叫んでまた姿を消した。
 なんだこれ。なんだこれ。
 心臓がうるさい。顔だって火が出ているんじゃないかというくらい熱い。冬馬は寝転んだまま横向きになり、自分の身体を抱きしめた。翔太に好きだと言われてキスをされる。それは何も初めてのことじゃない。けれど「好きになって」と、翔太はそう言った。一方的な想いを告げていただけの翔太から、明確な言葉をもらってしまった。
 指先を、唇に這わせる。熱いと思っていた唇は驚くほど冷たかった。さっきまでここに翔太の、翔太の舌が――。
「……嘘だろ」
 意識してしまったら最後だ。
 ドクンドクンと破裂しそうなこの鼓動が、答えなんだろうか? わからない。人を好きになったことなんてない。恋なんてしたことがない。でも嫌じゃなかった。苦しかっただけで、嫌じゃなかった。
 翔太とあんなキスができるだなんて知らなかった。
 ――好き。好きになって。
 切なげな声が頭の中でぐるぐると繰り返される。
 翔太が冬馬に言う『好き』が特別な意味の『好き』なのだということはわかる。そこまで鈍いつもりはない。冬馬だって翔太のことは好きだ。けれどそれは翔太の『好き』とは違う。それもわかっている。だから翔太は口にしたのだ。自分のことを、そういう意味で好きになってほしいと、それを冬馬に願ったのだ。
「っ、俺に、どうしろってんだよ……!」
 好きってなんだ。好きは、好きだろ。好きに種類なんかあるほうが変だ。そう思っているはずなのに。じゃあ翔太とキスをしている自分はなんなんだ。男同士。相手は恋人ですらないのに。キスという行為に嫌悪を感じていない自分はなんなんだ。
 翔太のことが好きなのか? ああ好きだ。でもこれは恋愛感情なんかじゃない。絶対に。それだけは胸を張って違うと言える。
 だって冬馬の一番は昔から――。昔から?
 冬馬はベッドを支えにふらふらと立ち上がった。
 目の前に、カーテンが閉じられていない窓に。眉が下がり、泣きそうになっている顔があった。顔どころか耳や首まで赤くなっている。その情けない表情をしている人物が天ヶ瀬冬馬だと気づくまで、ずいぶんと時間がかかった。
 ベッドに膝をついてカーテンを閉める。乱暴に引いたせいか途中で引っ掛かってしまった。
「クソッ、ふざけんなっての」
 うつむいて、何に対するものなのかわからない鬱憤を吐き捨てる。遠くから、さあさあと水の流れる音がした。翔太が風呂に入っているのだろう。
 身体はこんなにも熱を持っているのに、思考回路だって擦り切れる寸前だというのに。それでも頭の片隅で、夕食の準備をしなければと思っている自分がいた。
 心臓がある場所に手のひらを当てる。鳴り止みそうにない鼓動に情けなさを通り越し、馬鹿らしくなってしまって、冬馬は自嘲的な笑みを浮かべた。


 目が覚めたら、冬馬の姿はどこにもなかった。
 翔太はところどころがふわりと跳ねた後ろ髪と同じような足取りで部屋中を歩き回ったのだが、やはり冬馬の姿はどこにもなかった。キッチンの作業台に大きな紙袋が置いてあって、中を見なくてもこれが弁当なのだとわかる。弁当箱がふたつ。水筒の中身はスープだろうか。紙袋の隣にはたまご焼きとケチャップが挟まったサンドウィッチがあった。ラップをめくり、まだ温かなそれをひとつだけ手に取る。
「冬馬君ってほんっと……」
 その続きを口にすることなく、翔太はサンドウィッチに噛みついた。別に、冬馬にそうあってほしいと思っているわけではない。
「おいし」
 どこか懐かしい味の、四角形のサンドウィッチをぺろりとたいらげると、翔太は二切れ目を持って冷蔵庫を開けた。牛乳を取り出して、いつも使っているカップに半分ほど注ぐ。それをごくごくと一気飲みしてもう一度、今度はカップいっぱいに白い液体を注いだ。手にしていたサンドウィッチを唇で挟み、カップと皿をそれぞれ手に持って洋室に移動する。
 起きたときには気づかなかったが、部屋のカーテンは二箇所とも開けられていた。冬馬だろう。昨晩、ソファで寝ると言って聞かなかった冬馬を無理やりベッドに押し込めたのは他でもない翔太だった。

 冬馬に、好きになってほしいと言ってしまった。自分から仕掛けたことなのに場の空気に堪えられなくて逃げ出して。冬馬の態度が変わっていたらどうしようと、はらはらしていたはずなのに。いつもより長風呂をしたあと、空腹を満たす匂いにつられてしまった。
「うわー! おいしそう!」
 キッチンに立っていた冬馬の隣に並び、ジュウジュウと音を立てるフライパンの中身を覗き込んだ。翔太が自分のためにと一際大きく作ったハンバーグが真ん中を陣取っている。周りに浮かぶソースがバチバチと焦げる音。スパイスのつんとした香り。今すぐ頬張りたくなった。
「ばっ、危ねえだろ!」
 ふわふわとしたパジャマの後ろ襟を掴まれる。油が跳ねたら大変だと思ったらしい。少しだけ高い位置にある顔を見上げれば、冬馬の頬は少しだけ赤かった。むっとした顔をして、翔太と目を合わせてくれない。……なんで? そう思いながら「ごめんなさーい」と口にする。
「だっておいしそうだったから、つい」
 笑顔でそう続けてみると、冬馬はあからさまに安堵したような表情を浮かべた。
 変な冬馬君。そう思いながら、真っ白な皿の上に並べられたニンジンを指先で摘んで口に運ぶ。つやつやとしているこれはグラッセというらしい。冬馬が教えてくれた。レストランなんかではよく目にするし口にもするが、御手洗家の食卓に出てきたことはおそらく一度もない。
 口の中に放ったニンジンを奥歯でつぶせば控えめな甘さが広がった。人工的な甘さのはずなのに、これが本来の甘さなのではないかと錯覚する。それくらい舌に馴染む味だった。
「こら。意地汚えことすんな」
「だって僕もうお腹ぺこぺこなんだもん。ちょっとくらい味見したっていいでしょー?」
「もうちょいで焼けっから、おまえはあっちで髪でも乾かしてろ」
「はーい」
 翔太はこのとき、数十分前に冬馬との間に起こったことをすっかり忘れてしまっていた。
 言われた通り髪を乾かしているときも、出来上がった夕食を食べていたときも、満腹になってベッドに寝転んだときも、写真がちゃんとブログにアップされているか確認したときも、北斗が出演しているドラマを見ていたときも、もう寝ようと口にしたときも。狭いベッドに二人並んで目を閉じていたときだって、忘れていた。

「あー……やっちゃった……」
 意識してほしかったはずなのに、自分が相手を意識せずに過ごしてどうする。テーブルの上に皿とカップを置いて翔太は一人うなだれた。
 冬馬に抱いている感情が恋なのか、それは翔太自身も掴みあぐねていた。だって、冬馬と一緒に居たって四六時中ドキドキするわけではないのだ。これが恋だったなら、きっと同じベッドで眠れるわけがない。幸せで、満たされて、甘酸っぱくて苦しくて。恋とはそういうものだろう。
 ――冬馬を独り占めしたい。
 翔太が自覚している想いはこれだけだ。
 くだらない独占欲だと思う。子どもみたいな願望だと言ったほうが良いのかもしれない。実際子どもなのだから、これくらいのわがままは許されたいのだけれど。
 冬馬は自分のものだと主張するように。あるいは場の空気を変えるために口付けて、忘れた頃に好きだと言ってみる。最近はもう、コミュニケーションの一環のように受け取られているのか、冬馬は流すばかりで照れもしなくなった。
 初めは、かわいらしい反応を返してくれていた。唇を寄せるたびに少女のように顔を赤くして「まて」「だめだ」と否定の言葉を吐いていた。駄目だと言う冬馬の言葉を無視して指先同士を絡めたときのことを、翔太は今でも覚えている。
 じんわりと汗ばんだ手のひら。冬馬がつけていた香水の匂い。――そう。昔の冬馬はシトラスの香りを身にまとっていた。
「僕、好きなんだ。冬馬君のこと」
 まだ黒井の元で仕事をしていた頃の話だ。キスをしたあと、信じられないものを見るような目をしていた冬馬を懐柔するため、もっともらしい台詞を平然と言ってのけたのは。嘘をつくのは得意だった。嘘を嘘だと見抜かれない自信もあった。嘘をほんとうにすることも、あのときは、できると思った。
 冬馬を奪いたかった。誰から奪いたかったのか、今となってはわからない。黒井かもしれないし、北斗かもしれない。もっと別の、ステージの向こう側にいる人々かもしれなかった。冬馬を奪って、それから、翔太のことだけを見てほしかった。あの、何もかもを射抜くような瞳で。誰かの思い通りになる冬馬なんて冬馬じゃないと知りながら、それでも。
 奪うために何をしようかと考えて、手っ取り早くキスをしてみようと思った。冬馬の唇が誰にも触れられていないと知っていたし、キスは好き合っている者同士がするものだという知識があったから。キスをして、好きになってもらえたらラッキーだと思った。北斗も知らない、二人だけの、秘密。特別な関係。それは翔太にとって恐ろしいほど甘美な響きだった。
 この独占欲と好奇心と憧れをないまぜにした感情を、恋だと呼んでも良いのなら、確かに翔太は冬馬に恋をしているのだろう。恋と呼ぶにはほんのちょっぴり自己中心的で歪んだ想い。執着とは違うはずだ。
 ちょっとつつくだけでころころと表情が変わる冬馬のことが好きだと思う。年上なのに、かわいくて面白くて。もうお手上げに近い状態だった。けれどステージの上に立ってしまえば相手が誰であろうが、たちまち魅了してしまうのが天ヶ瀬冬馬という人間――アイドルだった。その二面性を知れば知るほど、翔太は冬馬にのめり込んでいった。
 燦々と燃え続ける炎のように、いつも煌めいている人。美しい人。なのに、ふとした瞬間に消えてしまいそうな物悲しさもあって、目が離せなくなる。夢中になってしまう。虜になってしまう。一度目撃してしまえば、誰だって冬馬のことを好きになるはずなのだ。そうやって翔太も冬馬のことを好きになった。だからこそ。
 ――はやく、僕のこと好きになって。
 冬馬と恋人同士になりたいわけでも愛を囁き合いたいわけでもなかったが、反応がないのも面白くなかった。きっと翔太は冬馬に好きだと言い過ぎていたのだろう。そうでなくても冬馬は愛される人間なのだから、この行為と言葉が当たり前になってしまっては困る。特別が普遍のものになってしまっては意味がない。
 あの言葉は賭けだった。冬馬と翔太の関係を、もしかしたらジュピターという世界を壊してしまうかもしれない、そんな期待と不安を一緒くたにした言葉だった。そしてあれが、今の翔太に言える精一杯の想いでもあった。
「うう、恋……恋ってなんだろ……」
 食べかけのサンドウィッチを皿に戻してテーブルの上に頬を乗せる。長い前髪が目にかかってくすぐったい。はあ、とため息をついて翔太はぐりぐりと額を押しつけた。
 カチコチと、壁に掛けられている時計の秒針を聞きながら昨日のキスを思い出す。冬馬の内側の柔らかさ。熱かった。もっと近づいてみたい、触ってみたいと思った。冬馬本人でさえ知らない冬馬を暴いてみたい。黒井も、北斗ですら知らない冬馬を見てみたい――。
 そんな欲ばかりが膨らんで、翔太はいつも空腹だった。あともう少しで満たされそうな予感はしているのに。その、あともう少しが遠すぎる。
 ブブブ。
 充電器に繋いでいたスマートフォンが震えた。顔を上げて立ち上がり、コンセントに近づく。母さんかな。ほんとに帰らなかったし、などと思いながら画面をタップすると、そこに表示されていたのは今まさに翔太を悩ませている人物の名前だった。冬の馬。冬馬君。
『朝飯食ったか?』
 送られてきたメッセージはそれだけだった。
 翔太は前髪を軽くかき上げてから『今食べてる』とだけ返信した。一人だとどうにも食べる気にならないということを冬馬は知っているから、この言葉には「残さずにちゃんと食うんだぞ」という意味も込められているはずだ。料理好きな冬馬が手軽に食べられるものを置いて行ったのもそれが理由だろう。
『食い終わった皿は流しに置いとけよ』
 きれいな歯型がついたサンドウィッチを右手で掴んで口元に運んでいると、そんな言葉が返ってきた。全く。食事のことになると冬馬には敵う気がしない。翔太は苦笑しながら一人きりの食事を再開した。
 自分はこんなにも頭を抱えてるというのに、普段と変わらない冬馬に少しだけ不満を覚えながら。


 午前中はダンスレッスンが入っていた。トレーナーと二人で映像をチェックしながら完成度を高めていく。大型のライブを控えているというわけでもないが、翔太に舞い込んでくる仕事はどうしてもトークやダンスが中心のものばかりだった。
 収録でもイベントでも、一人で踊ることが増えた。ジュピターのパフォーマンスはどうしても三人のバランスを重視したものになっているため、これは、機会があるのなら存分に力を発揮しておくべきだというプロデューサーの考えなのだろう。もっと別の仕事もと思っているが、北斗のドラマ撮影が今月で終わり、来月からは冬馬の舞台がはじまる。だから次は僕かな、なんてことを翔太は密かに期待していた。
 翔太は演技も好きだ。特に、自分の思想とかけ離れた役を演じていると、思いがけない出逢いをしてしまったような気持ちになる。思ってもない感情を言葉に乗せることも、それを表情に出すことも楽しくてしょうがなかった。
「これ、ダンスとは関係ない話なんだけどさ、アリちゃんって恋人とかいる?」
 レッスンが終わってクールダウンをしているとき、背を押してくれていたトレーナーの有浦にそんな話題を振った。有浦はプロデューサーと変わらないくらいの年齢で、ダンス留学の経験者でもある。翔太の講師としては申し分ない逸材だった。ダンス一筋の人だから期待しているような答えは返ってこないかもしれない。そう思いながら鏡越しに見つめていると、彼女は声を上げて笑った。
「恋人? あはは、いないいないっ」
「うそ、今まで一人もってことはないでしょ?」
「残念ながら今まで一人も。もうこのままあたしの人生ダンスで終わっちゃうかも」
 楽しそうに笑ってみせる有浦にそれ以上のことは言えず、翔太はふうんと相槌を打った。ダンスで終わる人生。それも良いのかもしれない。好きなことだけをやって生きて、後悔のないまま死ねるのならそれは理想の人生だろう。
「なあに? 翔太くん、好きな子でもできたの?」
 女性らしく瞳を輝かせる有浦の姿は姉たちのようだった。弟をからかうことが大好きな姉三人。小さい頃からかわいがられて、同じくらい揉まれてきた。自分の人格は姉たちによってに作られたようなものだと翔太は思っている。だから年上の人間といると気が楽なのだ。もちろん女性に対する対応も心得ている。
「まっさかー。アリちゃんきれいになったなって思ったから、何があったのか気になっただけ!」
 立ち上がって、タオルとボトルを持つ。
「ありがと。時間だから僕もう行くねっ」
 にこにこと微笑みながら翔太は有浦を残してレッスンルームをあとにした。話題を切り上げたことを彼女は察してしまっただろうか。それでも良かった。いくらでも取り繕える。無邪気で無知な十四歳を演じることは翔太にとって日常だ。違和感を覚えたとしても、笑って、何も知らないという顔をすれば大抵の大人は騙されてくれる。
 ――だから、そういう意味では北斗は厄介な相手だった。
「翔太。何かあった?」
 事務所に戻り、会議室で遅い昼食を食べていると北斗はきっぱりと言い切った。冬馬が作ってくれた弁当箱を開けて、おいしそうだねと笑って。そこに鎮座していたのが、デミグラスソースがたっぷりとかかったハンバーグだったから、昨日はスパイシーな感じのソースだったよと報告して。いただきますと二人同時に手を合わせたところまでは良かった。
 一口、二口と。弁当を無言で食べ進めていたのだが、北斗は前触れも重々しさもなくそれを口にした。今日の晩飯何が食いたい? と、冬馬が自分たちに尋ねるときのほうがよほど切羽詰まっているように思えた。
「――もしかして顔に出てる?」
「出てる出てる。冬馬だって気づくと思う」
「あー……ちょっとね、アリちゃんに悪いことしちゃったかなって。自己嫌悪っていうか、反省してるだけ」
「梨沙さんに? めずらしいね」
「今度謝るから大丈夫。……それより北斗君。この水筒の中身、気にならない?」
 机の上に置いたままの水筒を手にして、向かいに座っている北斗にいたずらを企む子どものような笑みを見せる。北斗の言葉を待たずにキュッと水筒の蓋を回せば、ぶわっと酸味を帯びた香りが会議室中に広がった。
「おっ。トマトスープだ」
 昨日のコンソメスープにトマトを足したのだろう。紙袋の中に入っていたプラスチックのカップを手にした北斗に「貸して」と言われて水筒を渡す。待っているとすぐにスープが注がれたカップを手渡された。
「ま、梨沙さんもさっぱりしてる人だから。謝れば笑って許してくれるよ」
 さっきの話はあれで納得してくれたらしい。大雑把な言い方ではあったがほんとうのことでもあるから、目をつむってくれたのかもしれなかった。
 北斗に誤魔化しは通用しない。ユニット内で一番年長というだけあって冬馬と翔太のことをよく見ている。冬馬だったなら違和感を抱いて終わることでも、北斗には見抜かれてしまう。厄介だが、それを嫌だとは思わないのは北斗の人柄も関係しているのかもしれない。心を霞ませるもやのようなものに、柔く触れられるのは嫌いじゃなかった。
「冬馬の作るたまご焼きってやっぱり甘いんだな」
 スープを飲んでいると、北斗がそんなことを口にした。弁当箱の中にはハンバーグの他に野菜のグラッセとケチャップが和えられたスパゲティ。それから、きれいなきつね色のたまご焼きが入っていた。
 翔太はカップを机の上に置き、たまご焼きを箸で掴んで口元へ運んだ。
「……そういえばそうだね。うちのはしょっぱいや」
「俺の家も塩が入ってたよ。だから初めて冬馬のたまご焼きを食べたときは結構衝撃でさあ」
 ――でも、好きだなって思ったんだ。
 北斗は微笑みを絶やさずにそう続けた。
 冬馬の作るたまご焼きは甘い。稀にカニカマやウインナーが入っていることもあるが、たまご自体は変わらず甘かった。今朝のサンドウィッチに挟まっていたたまごも甘かった。一度作っているところを見たことがあるが、砂糖と醤油を混ぜていたような気がする。それが当然だと言うように自然な所作をしていたから、翔太は「なんで砂糖と醤油なの?」と訊くこともできなかったのだ。
「こういうのを『お母さんの味』って言うんだろうね」
 北斗がしみじみと言った。
 ――お母さん。
 冬馬の母親は故人だ。いつ。どうして。そこまで深いことは知らない。ただ、冬馬がまだ神奈川に住んでいた頃。冬馬の家に遊びに行くたびに翔太は彼女の写真に挨拶をしていた。だから親近感というのか懇意というのか……そういう感情はあった。逢ったことなど一度もないのに、まるで友人のような気持ちを一方的に抱いていた。
 額の中で活発そうな笑みを浮かべているその人は冬馬そっくりだった。隣に座っていた北斗が「冬馬ってお母さん似なんだ」と静かに語りかけると、本人は「よく言われる。自分じゃわからねえけど」なんて唇を尖らせながらそっぽを向いていた。今思い返しても、冬馬の、あのなんとも言えない顔は他の場面では見たことがない。
 翔太は手に持っていた箸を置いた。
 ……このたまご焼きは、冬馬君のお母さんの味?
 冬馬君がお母さんから教えてもらった味なのかな。
 心臓の辺りがきゅうっと締めつけられるような痛みを感じた。母が作るしょっぱいたまご焼き。姉たちが作るたまご焼きも同じ味だ。だから、北斗の言葉の通り、これはそういうことなのだろう。
 泣いてしまいそうだった。一人でキッチンに立つ冬馬のことが愛おしくて。涙がこぼれてしまうかと思った。翔太に冬馬の気持ちはわからない。もしかしたらたまご焼きを作るたびに母親のことを思い出しているのかもしれないし、そんなことはないのかもしれない。なのにこんなにも胸が締めつけられているのは、冬馬とその母親の繋がりのようなものを体感してしまったからだろうか。
「……翔太?」
 黙り込んでいると、心配そうな声色が耳に届いた。
 なんでもない、と翔太は呟いた。
「――僕も好きだよ。冬馬君のたまご焼き」
 愛だと思った。自分が冬馬に抱いている気持ちは恋ではなく、愛だと。恋と愛の違いなんて翔太にはわからないけれど、冬馬は「そんなもんいらねえ!」なんて言うかもしれないけれど。それでも無性に、冬馬のことを抱きしめてあげたいと思ったのだ。


 夕食は北斗手製のパスタだった。お得意のカルボナーラではなく、最近はまっているのだというレモン風味のシーフードパスタ。これもイタリアの友人からレシピを教えてもらったらしい。輪切りのレモンが入っているパスタを翔太は初めて食べた。
「北斗君も料理作るの好きだよね。作るのってめんどくさくない?」
 フォークにパスタを巻きながら、からかうように指摘すれば件の色男は「アピールポイントは多いほうがいいんだよ」なんて言って得意気に笑ってみせた。
 冬馬の料理を家庭的で親しみやすいと表現するならば、北斗の料理は華やかでお洒落だ。作る人間の人となりがここまで反映されるのだから食す身としては面白い。これで味が悪いのならオチがつくのだが、北斗の料理は味まで完璧だった。
「これ。翔太のために買っておいたんだ」
 キングサイズのベッドに寝転んでスマートフォンを触っていると、風呂上がりの北斗が巨大なアイスクリームを乗せた平皿を持ってやって来た。そのアイスクリームを目にした瞬間、翔太は勢い良くスマートフォンを放り出して跳ね起きた。
「覚えててくれたの!? さっすが北斗君!」
 チョコレートとバニラアイスがレースのようにひらひらと折り重なったケーキのようなアイスクリーム。包丁で切りながら食べることを想定されたこのアイスクリームの存在を知ったとき、翔太は「一本丸ごと食べてみたい」と口にした。北斗はそれを覚えていたのだ。
 ベッドに座りなおし、手渡されたスプーンを使って端から食べ進めていく。北斗は反対側からスプーンを差し入れていた。掬っていたアイスクリームを「あーん」と言いながら差し出せば、素直に食べられてしまう。翔太も北斗が掬ってくれたものを食べた。自分の手で食べないだけで格別においしいと感じてしまうのはなぜだろう。
 パーティ向けのアイスクリームは二人が消化するよりも早く溶けていく。それすらも、醍醐味のようで楽しかった。きっと冬馬なんかは包丁で切り分けたものしか食べさせてくれないのだろう。その点、北斗は翔太とよく似た冒険家だった。
「ところでさ、翔太の家出の理由。俺、まだ聞いてないんだけど」
 輪郭を失ったアイスクリームが乗った皿を翔太のほうに寄せながら北斗は切り出した。もう外側のチョコレートは溶けていて、バニラアイスと混ざりマーブル色になっている。翔太は液体になってしまった部分をスプーンで掬い舐めとると、突き刺さる視線から目を逸らした。
「笑われるから言いたくない」
「……冬馬のせいなんだって? あいつ何したの」
「なんにもしてないよ。ぜんぶ僕が悪い」
 冬馬君のばか。なんでもかんでも北斗君に喋っちゃってさ。
 そうやって頬を膨らませていると、北斗の白い指先が翔太の横髪を撫でた。指先はそのまま、長い髪を耳にかけてしまう。
「……俺は事情を知らないから頷くことも否定することもできないけど、『自分が悪い』なんて言葉で自己解決したつもりになるのは良くないと思う。冬馬だってすごく心配してたよ。『俺が原因なんだったら詫びに行かねえと』って言ってたから、近いうちに菓子折りでも持って行くんじゃない?」
 自分は蚊帳の外に居るのだという態度を崩さず、あくまでも第三者の視点でものを語る北斗にぐうの音も出ない。翔太は深くため息をついた。菓子折り。冬馬なら本気でやりかねない。そうなる前に誤解は解かなくてはならない。――けれど。
 ……ほんとうに、くだらない親子喧嘩をしているだけなのだ。売り言葉に買い言葉。出て行けと言われたから出て来た。実際は、そんな強い言葉じゃなかったけれども。
「あ、ちょっと待って。冬馬からだ」
 鳴り響いたスマートフォンを手にして翔太に断りを入れると、北斗は「お疲れ」と画面の向こうにいる冬馬に声をかけはじめた。ナイスタイミングだよ冬馬君。止まっていた手を動かして、翔太は再びアイスクリームを胃の中に収めていく。北斗がうんうんと頷いたり笑ったりする合間に、ノイズが混じった冬馬の声が聞こえた。
「明日? 俺は大丈夫だけど、昨日の今日でって――冬馬、おまえ気にしてたんだろ。はいはいわかった。はいはい。あ、翔太に代わろうか? ……そう? おやすみ」
 スマートフォンを耳元から降ろした北斗が翔太を見つめて破顔した。
「冬馬が『明日の夜俺んちに来い』ってさ。カレー作ってくれるらしいよ」
「泊まり?」
「そうなるかな。明後日はオフだし、たぶんワインも飲むだろうし。まあ正確には『飲まされる』なんだけどね」
 仕方ないなあ、と口元に手を当てて笑う北斗に翔太はきょとんとする。何か、二人の間で約束でもしていたのだろうか。
「ていうか! 冬馬君さあ! 僕と話したくないみたいな感じじゃなかった!?」
 バシンとベッドを叩けば高級なマットレスが手のひらを弾く。
「ああそれね。冬馬のやつ『うるせえからいい』だって」
「失礼すぎるでしょ!」
「あははは。まあまあ、冬馬も今帰ってきたみたいだったし、その件については明日二人でじっくり話し合ったらいいよ」
「んー……そうする」
 投げやりに頷いて、平皿を両手で掴むとアイスクリームだったものを直接飲んで流し込んだ。北斗は何も言わなかった。はしたないとも行儀が悪いとも。それが心地良くて、少しだけ物足りない。これが冬馬だったら。家族だったら。
「――で。ご感想は?」
 翔太の手から空っぽになった皿を奪った北斗が浮ついた声色で尋ねてくる。自分から訊いておきながら、北斗は翔太の返答を待たずにベッドから立ち上がるとキッチンに向かった。いつもこうだ。北斗と翔太は兄と弟の役割をきれいに分け合っている。実際のきょうだい関係がそうなのだから、きっとこれが自然なかたちなのだろう。最も、翔太の姉たちは北斗ほど甘くはないのだけれど。
「もう最高。冬馬君に自慢して、うんと拗ねさせちゃう」
 ぽすんとベッドに寝転がってスマートフォンに手を伸ばすと、二十三時を過ぎていた。具体的な時間を意識すると急に睡魔が襲ってくる。それと同時に、冬馬はこんな時間まで練習をしていたのかと感心してしまった。仕事の合間、控え室で台詞の練習をしている冬馬を見たことがあるが、台詞とは言え冬馬の口から「兄さん」という言葉が出たことに驚いたものだ。
 兄に殺される弟。弟は兄に首を絞められて、ろくな言葉も交わさずに彼らの関係は終わる。なのに兄は弟の亡霊に取り憑かれて、弟を求めるようになるのだ。目を開かず、言葉を発さず、呼吸すらしない。兄はあの日殺した弟と瓜二つの人形を愛でる日々に陶酔していく。
 翔太には難しい話だった。原作の漫画を読むかと冬馬に勧められたこともあったが、怖くて読む気になれなかった。それでも舞台のチケットは貰っているので、北斗と一緒に観に行く予定ではある。
「……ねえ北斗君。昨日佐々木さんと舞台の話してたとき、冬馬君ちょっと変じゃなかった?」
「ああそれ、翔太も気づいてた? うん。心ここにあらずって感じだった」
 汚れた食器をまとめて洗う北斗の隣に並んで、家から持ってきた歯ブラシに歯磨き粉をつける。どうやらあのとき冬馬の様子に違和感を感じていたのは翔太だけではなかったらしい。
「めずらしいよね。仕事中にあんな風になるの」
「まあ、冬馬も割と役に引っ張られるタイプだからね。あの舞台の演出家って俺たちのことをデビューしたときから知ってるみたいだし、もしかして何か言われたりしたのかも」
「……昔のほうがよかった的な?」
「あんまり考えたくないけど」
 それからしばらく、無言の時間が過ぎた。
 黒井の元に居た頃のほうが良かった。そう思っているファンが少なくないことを翔太は知っている。SNSで検索すれば一発だ。翔太がファンレターを好きになれない理由はここにあるのかもしれない。本人の目には届くはずがないと思って吐き出される本音を知っているから、本人に読まれることを想定して書かれた手紙の言葉を薄っぺらく感じてしまうのだ。そして、匿名で書かれた本音のほうが正論で暴論だということも翔太は知っていた。
 黒井の元に居た頃のほうが良かった。それもまあ、正論だろう。潤沢な資金に、華やかで大きな仕事。トップアイドルを目指している人間なら誰もが羨む大手事務所。けれど、あそこでは無理だったのだ。あそこで得た名声に意味はなかった。冬馬が「もう黒井のオッサンとはやっていけねえな」と呟いたときのあの表情を、あの声色を。北斗と翔太以外の人間は知らないから。そんなことが言えるのだ。
 黒井は最後までジュピターのことを信じてはくれなかった。結果がわかっていない勝負には乗れない、利己的で堅実な大人だった。それでも冬馬は黒井のことを信じようとしていたし、黒井にもそれを求めていた。自分たちのことを信じて任せてくれるだろうという期待を最後まで捨てることができなかったのだ。
 ――結局、二人の想いが交差することはなく、冬馬は黒井の元から去ることを選んだ。それで良かったと翔太は思っている。北斗だってそうだろう。信じることが愛ならば、ジュピターは生みの親である黒井崇男に愛されてはいなかった。ジュピターを誰よりも信じて、愛していたのは他でもない冬馬だった。だから北斗と翔太は今もこうして冬馬の隣にいる。それが自分たちの答えであり、進むべき道だった。
「俺たち。そんなに変わったと思う?」
 泡だらけのスポンジを握りしめた北斗が呟く。
「俺は冬馬と翔太に出逢って、一緒にアイドルをするようになって、トップアイドルも目指すようになって……毎日が楽しくてしょうがないよ。昔も今も変わらないって思ってるけど、周りから見たらそうじゃないのかな」
 翔太は一瞬だけ考えた。
「……うーん。もしかしたら僕たちを見る周りの目が変わったのかも。ほら、僕たちってああいう売り出し方をされてたわけだし」
「――ああ、それなら一理あるかもね」
 自分たちは黒井に愛されてはいなかったが、大事にはされていたはずだ。黒井にとってジュピターというアイドルユニットは磨けば磨くだけひかる原石のようなものだったのだろう。あくまでもビジネスの、商品としての話だが。冬馬が芸能界のしがらみを知らずにいたのも、ある意味、黒井の思惑のうちだったのかもしれない。
「昔の僕たちのほうがいいって言われてもさ、無理なものは無理だよ。もうあの衣装を着てステージに立つことはできないもん」
 北斗の言葉を待たず、逃げるように洗面所へと向かう。
 コップに水を注ぎながら翔太は思考を巡らせた。自分たちに変わったものなんて何一つない。けれど変わらずに居続けるというのも無理な話だ、と頭では理解している。事実、ジュピターは事務所を移籍した。プロデュースをしてくれる人が変わった。売り出し方が変わった。そう考えれば、ジュピターを取り巻く環境は大きく変わったのかもしれない。それを『進化』ではなく『劣化』だと言う人もいるだろう。でもどれだけ祈ってみたところで過去には戻れない。誰がどんなに願ったって、ジュピターが再び黒井の元で活動するなんてことはあり得ないのだ。
 そんなささくれ立った気持ちを、翔太は口の中の歯磨き粉と一緒に吐き捨てた。
 人間、変わることを恐れていては、先になど進めない。


「よう。早かったなおまえら」
 したり顔で北斗と翔太を出迎えた冬馬に、二人は目を合わせて笑った。部屋の奥から食欲をそそる香りが漂ってきて鼻孔を刺激する。大好きな冬馬のカレー。食べるのは久しぶりだ。肉? 魚介? それとも野菜? 今日のメインはなんだろう。
 用意をするから先に帰る、と事務所を出て行ったときの冬馬の浮かれっぷりにはプロデューサーもくすくすと笑っていた。冬馬の足音が聴こえなくなった頃、「このあと何かあるんですか?」と二人に向けられた疑問に答えたのは北斗のほうだった。
「今日はカレーの日なんです」
 翔太も初耳なことを北斗は自慢気に言ってみせた。
 ――カレーの日。なるほど。それは良い表現だ。だってそれだけで、これから何が起こるのかわかってしまう。
「だからあんなに楽しそうだったんですね。冬馬さん」
「まあねー。あ、でも仕事中はちゃあんとしてたから安心してね。プロデューサーさん」
「ええ。そこは心配していませんよ。三人とも明日はオフですし、しっかりと休んで疲れを取ってきてくださいね」
 書類をテーブルに広げているその人に柔和に微笑まれる。北斗と翔太は感謝しながら事務所を出た。お疲れさまですと声をかければ同じ言葉がいくつも返ってくる。むず痒いような嬉しいような、ほわほわとした、よくわからない気持ちだった。
 冬馬には「ゆっくりして来いよな」と言われていたが、そこまで時間を掛けるつもりはなかった。寄り道をするような場所もなければ理由もない。翔太は北斗の車に乗り込むと、どうしよっかと困ったような表情を作った。「……お土産でも買ってく? ケーキとか」深く考えず口にした言葉だったが、北斗はいいねと頷いてくれた。
 早速、北斗のエンジェルちゃんおすすめのケーキ屋に移動すると二人はタルトケーキを三つ買った。一番人気のチョコレートタルト。真っ白なケーキ箱を大事に抱いて、冬馬の部屋に向かう。エレベーターから降りればふわりとカレーの香りがした。

 冬馬にタルトを渡して部屋に上がり、翔太は定位置についた。キッチンを横切るときに盗み見たが、大きな鍋に蓋はされていなかった。少し待っていたら出てくるんだろうなと内心ほくそ笑む。ケーキ屋にいた時点でグルルと鳴り続けていた翔太の腹はもう限界だった。
 冬馬はスパイスからカレーを作る。特に、新しいものや珍しいものを手に入れるとそのスパイスを使ったカレーを食べさせてくれるが、正直なところ何が違うのか翔太にはわからなかった。辛いか、甘いか。明確にわかる違いはこれくらいのものだ。それでも冬馬のカレーはいつもおいしかった。
「冬馬、こっちのサラダとグラス運んじゃっていい?」
「おう。ワインも持ってけ」
「……これ、やっぱり減ってない?」
「だから飲んでねえって!」
「あははっ、ごめんごめん。冗談だってば」
 キッチンから聞こえてくる二人の会話に翔太はくすくすと笑った。北斗は酒が好きだ。そして冬馬も、たぶん好きだ。
 この部屋に北斗が初めて酒を持ち込んだとき、冬馬はそれを咎めもせず、あろうことかグラスを手にして「俺にも少し飲ませろよ」と言ったのだ。驚いたのは北斗と翔太のほうで、そんな二人の反応に自分の発言がおかしいと気がついた冬馬は「忘れろ!」と慌てていた。聞けば冬馬は昔からたびたび飲酒をしていたらしい。親も何も言わなかったし、友人たちとも一緒になって飲んでいたと。そしてそんな過去に一人頭を抱えはじめた。……結局、冬馬は成人するまで二度と酒は飲まないと北斗と翔太に誓ったのだ。
「北斗君ってほんっとお酒のことで冬馬君をからかうの好きだよねえ」
 テーブルにサラダとグラス、ボトルワインを並べてる北斗を見つめながら口にする。まあね、と微笑む北斗に「いじわるだなあ」と独り言のように呟けば「だって面白いから」なんて言葉が返ってくる。
「面白くねえだろ!」
 頭上から振ってきた言葉に翔太は今度こそ声を上げて笑った。
 冬馬の両手には大盛りのカレーが乗った皿があった。むすっとした表情とは裏腹に、それはコトリと静かな音を立てて丁寧に置かれる。皿から漂う湯気に、待ってましたとばかりに舌なめずりをして、翔太はスプーンを手にした。早く早く、とキッチンと洋室を往復する冬馬を待つ。
 今日のカレーは、いつものカレーよりも水っぽい見た目をしていた。材料をペースト状にしているのか、牛肉のブロックがその存在を大きく主張している。
「北斗」
 ようやく腰を下ろした冬馬が、オレンジ色の氷が入ったグラスに赤い液体を注いでいく。何? と首を傾げれば北斗から「サングリアっていうんだよ」と教えてもらえた。そんな北斗は翔太の前に置いてあるグラスにリンゴジュースを注いでいた。そのまま冬馬のグラスにも同じものを注ぐ。もう食べていい? と口にはせず視線だけを冬馬に投げつければ、やれやれと頷かれて。翔太は大きく息を吸った。
「いっただっきまーす!」
 パンッと勢い良く両手を合わせてカレーを掬う。水っぽいルゥは白飯に染み込んでいた。細かく砕かれた、種のような皮のようなものはスパイスなのだろうなと一目でわかる。ぱくりとスプーンに食いつけば、思った通りの味が広がった。翔太好みのほど良い辛さに舌鼓を打つ。
「んんーっ! 辛いけどおいしいっ! やっぱり冬馬君のカレーが一番だなあ」
「やっぱりってなんだよ。当然だろ」
「うんうん。うちの母さんのカレーだとちょっと物足りないんだよね。この前『冬馬君のカレーのほうがおいしい』って言っちゃったんだけど、そしたら『そんなに冬馬くんのカレーがいいなら冬馬くんちの子になっちゃいなさい!』って怒られちゃって……あっ」
 三人のカレーを食べ進める手が止まる。
 翔太の頬にかああと熱が集まったのは、きっとカレーを食べているせいだけじゃない。
「おい翔太。おまえまさか……」
「……それが家出の理由?」
 二人の視線が痛い。北斗の言ったとおりだった。家出の原因は、翔太が母に冬馬の作ったカレーのほうがおいしいと言ってしまったこと。それに呆れた母の言葉通り、翔太は冬馬の家にやって来たのだ。
「……二人とも笑っていいよ」
「いや、笑わねえよ……つーか笑えねえだろ……」
「なるほどね。だから『冬馬のせいだけど悪いのは翔太』だったんだ」
 納得したように北斗が頷く。
 冬馬は気まずそうに自身の作ったカレーを見下ろした。自分のカレーが一番おいしい。そこに疑問はない。そこらのカレー屋のものと比べたってこのカレーのほうがおいしいに決まっている。――けれど。翔太が自分の母親のものと比べて「冬馬のカレーのほうがおいしい」と言ってしまったことについては、じんわりと罪悪感のようなものが湧いてしまった。嬉しいことを言われているはずなのに、それは違うだろうと翔太を咎めたい気分にすらなった。
「知ってる? 翔太。『お母さんの味』って言われる料理にはカレーも含まれるらしいよ。冬馬のカレーが冬馬にしか作れないように、翔太のお母さんが作るカレーはお母さんにしか作れない。……味はともかくさ、きっとお父さんやお姉さんにとっては特別な味なんだと俺は思うけど、どう?」
 北斗の耳触りが良い声色が部屋を満たす。
「……ま、北斗の言うとおりだな。俺のカレーはいつでも食えんだろ。いつでも作ってやる。親なんていつ居なくなるかわかんねえんだ。大事にしといて損はないぜ」
 そうぶっきらぼうに冬馬は語って、再びカレーにスプーンを沈めた。それ以上は何も言うことはないという意思表示なのだろう。北斗も冬馬に続く。カチャカチャと食器同士がぶつかる音が響いた。
 翔太も一口だけカレーを掬った。口に含めば香辛料の香りが広がる。母が作るカレーは、どちらかというと甘口だ。一番目の姉が子どもの頃からそうだったらしい。具材も食べやすいように小さく切られていて、コーンなんかが入るときもある。何年も家族のために作って、あのかたちになったのだろう。これから先も御手洗家の食卓にはあのカレーが並ぶはずだ。
 彼女にしか作れない、とっておきのカレー。
「……僕、家に帰る。母さんに謝んなきゃ」
「おう」
「そっか。じゃあ明日は送って行くよ」
 こうして翔太の家出騒動はあっさりと幕を閉じた。
 我ながら呆気ないなと思うが、そもそも母は初めから怒ってなどいなかった。翔太が自室で荷物をリュックに詰め込んでいるとき、彼女は「冬馬くんと北斗くんに迷惑かけるんじゃないのよ」と、例の紙袋を置いて行ったのだ。出て行く先なんて告げていなかったが、母にはばれていたらしい。敵わないなあ。そう思いながら苦笑する。
 敵わないといえば、冬馬と北斗にだって敵わない。二人の言葉はいつだって心地良く、身体の奥にまで染み込んでくる。それに、本人にそんなつもりはないのだろうが、冬馬に親のことを言われてしまっては反抗する気にもなれなかった。だって冬馬はもう母親と口喧嘩することはできないのだから。
「冬馬、このサングリア結構いけるよ。カレーにも合うし……うん、おいしい」
「そ、そうか? よかった。次はほんもののサングリア飲ませてやっから、覚悟しとけよ」
「うん。でもどうせなら翔太が二十歳になってからにしてほしいな。……冬馬と翔太とこうやって、小さなテーブルを囲んで酒を飲むのが俺の夢なんだから」
「小さいは余計だっつーの。でも、そういうのも悪くねえな。つまみの作り方でも調べとくか」
「はは、まだ先の話だってば」
 赤ワインと同じような色に北斗の頬が染まっていく。翔太はアルコールなど摂取したことはないが、なんとなく、北斗は弱いのだろうなと思っていた。酒を飲んだ北斗は表情も言葉もふにゃふにゃとしている。そんな姿を自分たちに見せてくれていることに、どうしようもない嬉しさを感じてしまう。格好つけたがりの北斗も好きだけれど、ふにゃふにゃな北斗だって好きだ。冬馬も似たようなことを考えているのだろうか。北斗を見つめる視線が「仕方のねえやつ」と語っていた。
「俺たち、仲良しだって言われるけど……やっぱりきっかけはあれなのかな。冬馬の手作り弁当事件」
 カラカラとグラスを左右に振って音を鳴らしながら北斗が口にした。身に覚えがある昔話に翔太も便乗することにする。
「冬馬君がロケ弁出ない日にお弁当を持ってきたんだよねー。懐かしいなあ。僕らの仲がぐっと深まった感動的エピソード」
「……は? んなことあったか?」
「あったよ! 僕と北斗君がお昼どうしよっかって話してる横で冬馬君ってば自分だけお弁当広げて『俺持ってきてるから』って言ったんだよ! 『協調性なさすぎるでしょ!』って叫んだよ僕!」
 まるで記憶にないと言わんばかりの冬馬の耳元で叫ぶと「うるっせえ!」と怒鳴り返されてしまった。そんな二人のやり取りに北斗は声を上げて笑う。
 あのとき、冬馬が控え室の机の上に広げた弁当に興味を示したのは翔太のほうだった。どんな中身だったかは忘れてしまったが、覗き込んだ弁当箱に詰め込まれたおかずが色鮮やかだったことは覚えている。「作ってもらったの?」という翔太の言葉に冬馬は首を振って「自分で作った」と言ったのだ。
 あの頃抱いていた冬馬のイメージからはずいぶんとかけ離れた言葉だったと、今でも思う。こんなにおいしそうな弁当を冬馬が作ったのかと、弁当と冬馬を何度も見比べて、それから翔太は「うっそだあー」と笑い飛ばした。
「――あ、冬馬君。カレーのおかわりちょうだい」
「おまえなあ。まだ話の途中だろうが」
「だって食べながら話したいんだもん。ねっ?」
 冬馬はしぶしぶと席を立つと、翔太が差し出した空の皿を持ってキッチンへと姿を消した。目の前に座っている北斗と目を合わせて「忘れてたって」と寂しそうに微笑み合う。
 ……結局、これは北斗と翔太が冬馬のプライベートを知ったという思い出話に過ぎないのだ。仕事の合間に軽い雑談こそしていたものの、当時の三人はお互いのことに無関心だった。冬馬は北斗と翔太が仕事さえきちんとしてくれれば良いと思っていただろうし、北斗は今よりも女性と一緒に居ることのほうが多かった。翔太は、翔太はどうだろう。あの頃から面倒くさいことは面倒くさいと口に出していたし、冬馬のことをからかって遊んでいたし、北斗の行動には良く呆れていた。自分が楽しければなんでも良くて、ジュピターをそういう場所にしたくて。意図的にそういう振る舞いをしていた。姉に放り込まれた芸能界。自分が一番大事だった。
「おらよ。んで、続きは?」
 部屋に戻って来た冬馬から皿を受け取ると、翔太はふうふうと冷ましながらルゥと白飯を軽く混ぜて、スプーンに乗せた。その一口を食べ終えるまで冬馬には待っていてもらう。
「んーとね、冬馬君のお弁当をつまみ食いしたの」
「はあ?」
「だからー、あんまりおいしそうだったから北斗君と一緒に冬馬君のお弁当をつまんだんだよ。そしたらほんとにおいしくてさ、今度ロケ弁ない日は僕たちの分のお弁当も作ってよねって指切りげんまんしたんだー」
「カツアゲじゃねえか!」
「でも冬馬、『それくらいどうってことないぜ! 俺に任せろ!』ってはりきってたよ」
「北斗君、冬馬君のものまね似てなーい」
 くすくすと笑う北斗と翔太を交互に見つめて冬馬は頭を抱えた。冬馬にとって、言われてみればそんなこともあったような気がするという程度の記憶だ。二人は楽しそうにしているが、もしかしたらあまり良い思い出ではないのかもしれない。けれどこれが仲良くなったきっかけだと北斗が言うのだから、ほんとうのことなのだろう。そして冬馬は翔太が言った通り、二人へ弁当を作ったのだ。そうでなければ今の自分たちがあるわけがない。……それにしたって、だ。
「おまえら俺の料理好きすぎだろ……」
 すっかり湯気が消え、少しばかり冷めたカレーを掬いながら冬馬はそんな言葉をこぼした。ワインを注いでいた北斗と、手付かずのサラダを食べようとしていた翔太は冬馬の台詞にぴたりと手を止める。
「もしかして自覚なかった?」
「胃袋なんて、僕たちとっくの昔に掴まれてたよ」
 だからこれからもおいしい料理、いっぱい作ってよね。
 唇の端に米粒をつけたままの翔太に微笑まれて、冬馬は照れくさそうに「ばあか」と返したのだった。


 手に持った鍵を鳴らして北斗がドアノブに手をかける。
「俺は先に車取ってくるから、翔太は下で待ってて」
「はーい」
「じゃあね冬馬。誘ってくれてありがとう」
「おう。また来いよ」
 昼食代わりにコーンスープと食べ損ねていたタルトを食べて、冬馬が好きなロボットアニメの映画を三人で見た。冬馬と北斗は普段からそこまで食べない。昨晩たらふくカレーを食べたのに「お腹すいた」と食べ物を要求する翔太にだけチャーハンを作ったのだが、それでも足りなかったらしい。映画を見ているときもスナック菓子に伸びる手が止まることはなかった。
 玄関に座り込んでシューズを履く翔太を冬馬は後ろから見下ろした。水のような男。常に穏やかで、時に激的で、まさに型破り。掴めないのなら、何度でも掴みに行くまでだ。
「また明日ね、冬馬君」
 立ち上がった翔太の腕を冬馬は掴んだ。
「わっ……何?」
 ぱちくりとまばたきを繰り返す大きな目を見つめながら、冬馬はきゅっと喉を鳴らした。
 好きになってほしいと言われた日から、冬馬はずっと考えていた。自分にとって翔太はなんなのだろう。北斗との違いはなんなのだろう。好きとは、恋とは、なんなのだろう。キスができたら好きなのか。好きだからキスができていたのか。恋愛なんてしたことがない頭で冬馬は必死に考えた。考えたとはいうものの、結局のところ自問自答を繰り返しただけなのだが。
「翔太」
 距離を詰めて、そのまま。自分の唇を押しつけた。
「……俺は、好きとかよくわからねえ。でも、おまえのことを好きになれると思った。つーかもう、好きになってるような気がしないでもない。――これが俺の答えだ」
 唇を離したあと、冬馬は気恥ずかしさに目を逸らした。翔太とはもう何度もキスをした。けれど冬馬から翔太に唇を寄せたことは一度だってない。どんどん顔に熱が溜まっていくのがわかる。比例するように心臓の高鳴りも速くなって、頭がくらくらとした。腕を掴んでいた手がゆっくりと落ちていく。指先が震えて、力が入らなかった。
「……っ」
 そんな冬馬にあてられて、翔太も頬を赤くした。
 キスをされた。あの冬馬から。翔太の『好き』と同じように、翔太のことを『好き』になれると言われた。それはつまり、翔太が冬馬を独占できるという意味だ。愛しても良いという意味だ。歓喜に身体がぞくりと震える。世界の崩壊がこんなにも幸福なことだったなんて、翔太は知らなかった。
 背負っていたリュックをコンクリートの上に落として、冬馬に向かって両腕を伸ばした。ぎゅっと抱きついた身体は熱くて、ドキドキとうるさかった。
「冬馬君、心臓すごいね。熱でもあるみたい」
「ッ……ほっとけ」
 左胸に耳を当てれば冬馬の鼓動が聴こえる。心臓は、壊れてしまうんじゃないかというくらい忙しなく動いていた。人は一生のうちに打つ心臓の回数が決まってるんじゃなかったっけ? あれって迷信だっけ? まあどっちでもいっか。そんなことを思いながら翔太はくつくつと笑う。
 冬馬君、僕のせいで早死にしちゃったらどうしよう。
 そう思ったところで悲しみではなく嬉しさのほうが勝るのだから、翔太も大概だった。おかげさまで、空腹だった腹の中が満たされていく心地がする。
 顔を上げて真っ赤になっている冬馬の頬に口付けると、翔太はリュックを持ち「ごちそうさま」と、それだけを告げてドアノブを勢い良く押した。待て、と冬馬が腕を伸ばしてみたところで軽やかな身体は捕まらない。閉まる前の扉にしがみついて、部屋の前に続く廊下を睨みつけたが、翔太はもうどこにも居なかった。
「翔太のやつ……何が『ごちそうさま』だ……!」
 恨み言は誰の耳に届くこともなく消えていった。
 触れられた頬を手のひらで抑える。唇ではなく頬に触れられたことに少しだけ物足りなさを感じながら、冬馬は部屋の扉を閉めた。
 良く晴れた、そよ風に若葉が揺れる日曜日のことだった。


 ――夢を見た。もう顔もおぼろげな母の夢だった。母は父の一番好きな人で、冬馬の一番好きな人でもあった。そう、本人に告げた記憶もある。母は喜んでくれたが、冬馬のことを同じように好きだとは言ってくれなかった。当たり前のことだろう。母の一番は父であるべきだ。
 電車に揺られながら、冬馬は神奈川の実家に向かっていた。東京で一人暮らしをするようになってからは掃除をするためだけに帰っている。月に一度は帰ると決めていたが、先月はすっかり忘れてしまっていた。母の夢を見て、そのことを思い出したのだ。
 夢の中で彼女は笑っていた。キッチンに立って料理をしている間、足にしがみつく子どもの口元へスプーンを運び「おいしい?」と微笑みかけるような人だった。夢と現実は違うと言うが、ときどき夢に見る母の姿は現実のものとほとんど変わらなかった。
 ――冬馬。
 その人は、鈴が鳴るような声をしていたと思う。声だけは、どんなに考えても思い出せなかった。今、冬馬のことをそう呼ぶ人間を思い浮かべると、甘くとろけた声を持つ男が出てくるのだからたまったものではない。
 駅を出て数十分。慣れた道をひたすら歩けば黄土色のマンションが見えてくる。『天ヶ瀬』と父の字で書かれたポストの中には広告がびっしりと入っていた。名前が記載されていないチラシだけを引き抜いて備えつけのゴミ箱に投げ入れる。
「ただいま。母さん」
 外はすっかり夕方だった。夕陽がリビングに差し込んでいて思わずため息が出そうになったが、きらきらと宙を舞う埃に気分が沈んでいく。冬馬は手にしていた封筒の束をテーブルの上に置くと、さっそく上着を脱いで掃除に取りかかることにした。
 電気も水道も止めていない。部屋の窓をすべて開けて掃除機をかけたあと、雑巾で床と棚の埃を拭く。掃除と言ってもやることはそれくらいのものだ。一時間もあれば終わってしまう。掃除を終えると、冬馬は腰を落ち着ける間もなく上着を羽織った。リビングに置いているキャビネットの上、調度品に紛れて立てかけられた母の写真が目に入る。冬馬の一番好きな人。その一番があと二人も居るだなんて話をしたら、裏切り者と失望されてしまうだろうか。
 ……いや。冬馬は目を閉じると首を左右に振った。断罪されたがっているこの気持ちは母への後ろめたさと、自己満足からくるものだとわかっていた。
 それでも冬馬は手を取ることにしたのだ。恋をする相手に、二人の手ではなく一人の手を。好きになってほしいと懇願した少年の手を。翔太を。自分の意志で選んだのだ。
 ――未知を。恋を知りたかった。
 それはきっとショートケーキの上に乗ったイチゴのように、クリームソーダの中に浮かべたチェリーのように、甘くて酸っぱい真っ赤なハート。
 あの瞬間、冬馬のそれは翔太によって掬われてしまった。




幸福を掬え!/180503