※21×18の二人


 助手席に乗り込んできた翔太に、待たせた、と一言だけ告げた。
「ううん、待ってないよ」
 シートベルトを伸ばす翔太からそんな言葉が返ってくる。備え付けの時計で確認すると、時間はもう二十三時を超えていた。駅前とはいえアイドルが一人で待ちぼうけていい時間じゃない。ほんの数分。車を取りに行く間、待たせていたのは俺なのだが。
 カチリとシートベルトが締まった音を聞いてアクセルを踏む。オーディオの再生ボタンを押せば、軽快な音楽が車内を満たした。トントンと指先でハンドルを叩きながら大通りに出る。
 ――このまま、どこか遠くに行きたい気分だった。翔太を乗せたまま、高速なんかに乗って。北か南か西か東か。どこでもいい。行けるところまで行きたい。
「翔太。おまえ今日はもう帰れねえって家に連絡しとけ」
「え? なんで?」
「…いいから。このまま付き合えよ」
 しぶしぶとスマートフォンを操作しはじめた翔太にホッと一息ついて方向転換する。翔太の家に向かうはずだった車は結局のところ高速に乗ってしまった。
 それから俺たちの間に会話は一言も生まれなかった。変わらない夜景を眺めながら走り続けて二十四時を過ぎた頃、もしかして寝たのかと一度だけ名前を呼んでみたが、なあに? と返事があったきりだ。けれどいい加減、翔太も眠いに違いない。まるでベッドの中に居るときのような、それはそれはとろけた声だった。なんとなく、オーディオは止めた。
 ――今日が来るのが憂鬱だなんて気持ちになったのは、はじめてのことだった。今だって、世界が崩れたような心地でいる。
 明日が休みでよかった。プロデューサーには礼を言わないとな。サンキュ。心の中で感謝の言葉を伝えていると、何度目かのサービスエリアが見えてきた。俺は腹もいっぱいだし眠気もないが、翔太はそういうわけじゃないだろう。気を遣われているのは最初からわかっていた。
 空いた駐車場に車を停止させてシートベルトを外す。身を乗り出して窓にもたれかかっていた翔太の肩を揺った。ついでに名前を呼ぶ。うたた寝なら、これで起きるはずだ。
「ん……あれ、とうまくん? …ごめん。僕、ちょっと寝ちゃってたかも」
 まぶたを擦る翔太に少しだけ罪悪感が湧くが、間違った言葉は訂正しておくことにした。
「かもじゃなかっただろ。寝てただろ」
「じゃあ、お詫びにキスしてあげるから許して」
 そう口にしながら、俺が拒否する間もなく手が伸びてきて、宣言通り唇を奪われる。触れるだけで離れていった唇から与えられたキスは、まるで親が子どもを慰めるようなものだった。そのまま、頬に添えられた手のひらは耳を掠めて後頭部に移動する。よしよし。可愛らしい響きの言葉とともに頭を撫でる手を、手首を、堪らずに掴んだ。
「――そういうのは、いい」
「…残念。お気に召さなかったか」
 いたずらが失敗して、バツが悪そうな表情を浮かべた翔太の手首を惜しげもなく離す。慰められるようなことじゃない。これ以上、子ども扱いされるのも違うと思った。
 窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。深夜のサービスエリア。車が走る音だけが聴こえてなんとも非現実的だった。
「それはそうと冬馬君。こんなところに僕を連れてきてどうしたかったの?」
 翔太の目はすっかり覚めたらしい。横を向けばにこにこと微笑む翔太がいたが、こいつが納得するようなもっともらしい理由を俺は持ち合わせていなかった。……帰りたくなかっただけなんて、そんなこと。巻き込んでおいて言えるわけがない。
「や、その、あれだ。目的はドライブであってだな、場所じゃねえっつーか…」
 しどろもどろな言葉を返していると、翔太は見せつけるように人差し指を引っ掛けてネクタイをほどきはじめた。しゅるりと布が擦れる音は聴いていて気持ちがいい。
「僕ね、てっきりホテルにでも連れ込まれるのかと思ってた」
 革靴を脱いでシートに左足を乗せる。膝を抱えた翔太は、期待が外れて残念だという声色で俺を咎めた。けれど、それが本心かどうかはわからない。これもいつもと変わらない、からかいの延長のような気がした。
「は…今から連れ込んでやってもいいんだぜ」
 だから俺も翔太の言葉に乗ってやった。実際、ここで一夜過ごすというのは無理がある。寝るならベッドで寝たいし、風呂にも入りたい。この窮屈な洋服も脱ぎ捨てたかった。
「いいけど、えっちはしないよ? なんか集中してくれなさそうだし」
「集中って…そんなこと考えてんのか」
「えー? どうせなら気持ちよくなりたくない? 今の冬馬君とするくらいなら一人でしたほうがマシ」
「じゃあ俺のこと呼びながらやれよ。おまえの声、ほんとずるいよな」
 なんつーか腰にクる。そう続けてスマートフォンを起動した。現在地から一番近いホテルを探す。どのホテルも高速道路のド真ん中からはなかなかの距離があったが、こればかりは仕方ない。降りるべきインターチェンジを確認してスマートフォンを後部座席に投げ捨てた。
「冬馬君さ、疲れてるでしょ」
 もう片方の足もシートに乗せて、体操座りをした翔太がそんなことを言う。
「あ? 疲れてなんか――」
「いい式だったね」
 脈絡もなく遮ってきたその言葉は、俺を現実に引き戻すには十分だった。
「……っ」
 思い出したように頭が痛みはじめる。ため息を吐いてシートに沈み込むと、翔太の手が、今度は額を撫でた。よしよし。さっきと同じ言葉と一緒に。
「すごく、いい式だったよね。北斗君、いっぱい笑ってたもん」
 俺に言い聞かせるように、噛みしめるように翔太が言う。その手は払えなかった。

 ――北斗が式を挙げた。結婚式だった。みんな、幸せ過ぎてどうにかなるんじゃないかと言うほど笑っていた。祝福に溢れた式だった。俺は翔太の隣に座ってその幸せな光景を、幸せな二人を、まるでテレビの中の出来事のように眺めていた。
『好きな人がいるんだ。結婚しようと思ってる』
 数ヶ月前、いや、数年前かもしれない。覚えていない。けれど、そう言われたことは覚えている。真剣な顔だった。真剣な声だった。俺にそんなことを告げた北斗は今日、とうとう、好きだという女と結婚してしまった。
『そうか』
 俺がこの件に関して北斗に語ったことといえば、この一言だけだった。祝福の言葉でもなく、否定の言葉でもなく。ただ事実を認めただけだった。北斗は困った顔をしていたが、そんな顔をさせているのは他でもない俺だった。
『…冬馬君は北斗君が取られちゃったみたいで寂しいんだよね。もう俺のカレーは食べてくれないんじゃないかとか、一緒に遊んでくれないんじゃないかとか。今まで当たり前だったことができなくなるんじゃないかって、そんなこと考えてるんでしょ』
 初めて翔太と寝た日、ぜんぶ終わったあと、そう言われた。そのとおりだった。
 北斗は俺のものだった。…俺のもの、なんて言い方は少し言葉が過ぎるが、俺はこの表現が一番近いと思っている。まあ、補足をするなら北斗は翔太のものでもあった。俺は北斗と翔太のものだったし、翔太は俺と北斗のものだった。綺麗な正三角形。それが俺たちの形だった。
 昔、北斗が言っていた。エンジェルちゃんたちと同じくらいジュピターのことを愛していると、確かにそう言っていた。じゃあ、エンジェルちゃん以上の存在が現れたらどうなる。俺たちはどうなる。その答えを証明されるのが嫌で――されても大丈夫なように、俺は翔太を道連れにした。
 今日は朝から気分が悪かった。最悪だった。地獄に居たような心地だった。きっと地獄ってのは結婚式場みたいな所なんだろう。知らねえけど。俺は今日北斗が女の指に指輪をはめる姿を、ケーキを食べさせられる姿を、大学時代の友人たちに祝われる姿を、両親に手紙を読む姿を、ぜんぶこの目に焼き付けてきたのだ。
 今日のことを俺は一生忘れない。忘れられるわけがない。世界が崩れた日のことを、忘れられるわけがない。

「ねえ冬馬君」
 聞き慣れた声が降ってくる。その声はまるで内緒話をするように小さかった。
「これから僕がもっと大人になって、仕事も恋もがんばってさ。それでも一番の人を見つけられなかったら……僕、冬馬君のことを迎えに行ってもいい?」
 額に置かれていた手のひらが離れていく。目を開ければ、暗がりの中に翔太の甘く微笑む顔があった。その顔を見て、キスがしたいと、そんなことを思った。
「……なんで俺が独り身の前提なんだよ」
「違うの? なーんだ、冬馬君も結婚しちゃうのかあ」
 残念。落胆を隠さない声とその言葉に馬鹿にされているような気になってしまう。けれども、まあ、悪い気はしなかった。
「――しねえよ。おまえが来てくれんの待ってる」
 だから一番なんて無理に探そうとすんなよ。攫われたいっつーなら、攫うけどな。それは口に出さず、手を伸ばしてまだ柔らかさの残った頬を撫でた。ゆっくりと閉じられた瞳に、つられるようにキスを仕掛ける。すぐに離れて、でも離れがたくて、もう一度だけ口づけた。
 約束だなんて一言も言っていないのに、ふにゃふにゃと笑う翔太がかわいくて仕方ない。ああこいつ、今は俺を迎えに来る気満々なんだな。そう思うとずいぶん心が軽くなった。照れ隠しに頬を掻く。
「…じゃ、行くか」
 ええっ待ってよ、なんて慌てる翔太に笑いながらアクセルを踏み込む。俺だってシートベルトは右肩に引っ掛けたままだった。
 数時間後には朝が来る。一人でする、なんて言われていたが俺はもうすっかり翔太のことを抱き潰すつもりでいた。
 寂しさは、どこかに消えてしまった。




これもひとつのアイラブユー/180303