ピンポーン。
 滅多にならないチャイムが鳴って、冬馬はぴくりと肩を跳ねさせた。作業をしていた手を止めて関に向かう。途中、ちらりと横目に見たモニターには子どもらしい手のひらだけが映っていた。ひらひらと振られているその手が「早く開けてよ」と語っている。かわいい。
 鍵を開けて扉を開けると、そこには翔太がいた。
「ただいま」
 にこりと。満面の笑みとともに言われた言葉に冬馬はポカンと口を開けたまま、部屋の奥へと進んで行く翔太の背中を見つめていた。
 今あいつ、なんつった?
 扉を閉めて翔太のあとを追いながら、冬馬は翔太が待つ自室に顔を出した。ソファに荷物を置いていた翔太がくるりと踵を返して冬馬を見据える。
「ただいま。冬馬君」
「……おう」
「あー……やっぱり変かな? プロデューサーさんがね、喜ぶんじゃないかって言うから、言ってみたんだけど……」
 照れくさそうに頬をかく翔太の言葉に冬馬は面食らった。
「プロデューサーが?」
 今日は仕事が終わってそのままプロデューサーの車でここにやって来たらしい。自宅ではなくわざわざ冬馬の家を指定した翔太にその人はきょとんとしていたが、次の瞬間には柔和な表情を浮かべて「わかりました」とカーナビに登録している冬馬の名前を選択してくれた。
 むずがゆい気持ちで助手席に座っていた翔太に「今日はカレーの日なんですか?」と声をかけてきたのはプロデューサーのほうだった。カレーの日。北斗が浮かれ半分に口にした言葉も、この人にかかればほんものになってしまう。
 ううん、と翔太は首を横に振った。
「今日はオムライスの日なんだ」

 冬馬のオムライスは日によって中身もソースも変わる。チキンライスにケチャップの日もあれば、きのこが入った和風ライスに明太子クリームの日もある。今日は、オーソドックスなものだった。ふわふわのたまごにソースは何もかかっていない。テーブルに置かれたケチャップを手に取ると、翔太は得意気な顔をして思い描いたものを書きはじめた。
 冬馬の皿には『だいすき♡』、自分の皿には『とーまくん♡』と。
「ばーか」
 席に着いた冬馬はそのオムライスを見ると満更でもなさそうに笑った。翔太のこういう行いに、冬馬は意外にも喜んでくれる。まるで角が取れてしまった宝石のようだが、その輝きは変わらない。幸せだと翔太は思った。好きな人が作った料理を向かい合って食べる。好きだと伝えれば同じ気持ちが返ってくる。何もかもが甘くて優しくて、嘘みたいだった。今だってどこか信じられなくて、夢かもしれないと思っている。
「はい冬馬君。あーん」
 スプーンの上に乗せたオムライスを差し出せば、冬馬は居心地が悪そうに眉間に力を込めた。宙に浮いていたスプーンを皿の上に戻して、右を見て左を見ている。僕らしかいないのに変なの、と翔太は思っているが面白いので口にしたことはない。
 クソ、と言う小さな呟きが聞こえたと思った瞬間、ぱくりとスプーンに食いつかれた。こればかりはまだ慣れないらしい。口を動かしながらゆるゆると頬を赤く染めていく冬馬を、翔太は両手で頬杖をつき満足気に見つめていた。
「……ね、冬馬君。僕にも食べさせて?」
 言葉とともに目を閉じる。口を開けて待っているとカチャリと食器同士がぶつかる音がした。相変わらず、食べさせる側になるのは問題ないらしい。けれど、翔太の唇に触れたものはスプーンではなかった。
「んんっ!?」
 ちゅう、と唇を吸われてしまう。開いていたままの口の中を冬馬の舌に舐められて、ぞくぞくと背筋に緊張のようなものが走った。不意打ちとはいえなんだか負けたような気になって、翔太は冬馬の舌が出ていく直前に自分のものを絡ませた。そのまま夢中になって互いの口内を味わう。冬馬の舌はケチャップの味がした。色気がないにもほどがある。
「ッ、僕が食べたかったの、とうまくんじゃなかったんだけどな……」
「はっ、そりゃ悪かった。ほら、」
「ん」
 翔太は今度こそ冬馬が掬ってくれたオムライスを頬張った。きっと美味しいんだろうけど、ドキドキと心臓がうるさくて味なんてわからない。身体もなんだか熱っぽい。ぜんぶ。ぜんぶ冬馬のせいだと思った。
「もう一口ちょーだい。あーん」
「ったく……飯くらい自分で食えよな」
 くつくつと笑いをこぼす冬馬に翔太はむっと唇を強く結んだ。
 これは罰なのだからそんな風に嬉しそうな顔をしないでほしい。以前の冬馬なら嫌々同じ台詞を吐いていたはずだ。それが一体どうしてこんなに甘くなってしまったのかわからない。もしかしてこれが冬馬なりの愛情表現というやつなのだろうか。
 ……まるで、まるではちみつの海を泳いでいるようだ。そっちがそのつもりなら、こっちだってどろどろに甘やかされてやろう。二口目を掬う冬馬を見つめながら翔太は密かに決意する。
 結局、食事が終わるまでの二十分。翔太がスプーンを持つことは一度もなかった。




オムライスの日/180503