「鍵? ……ああ、別にそのまま持ってていいぞ」
 冬馬の言葉に、翔太は自分の手のひらの上に乗せていた鈍色の物体を見下ろした。キーホルダーも何もついていない裸の鍵が寒そうに鎮座している。
 この鍵の存在に気づいたのは翔太が冬馬の部屋に泊まり、一人で目を覚ました朝から一ヶ月が経った日のことだった。
 あの日の朝、部屋には翔太しか居なかった。玄関に置かれていたこの鍵を使って扉を閉めダンスレッスンに向かったのだが、そのままリュックの内側――チャック付きの小さなポケットの中に入れっぱなしにしていたため、すっかり存在を忘れてしまっていたのだ。
「……僕さ、この鍵持ってたってたぶん使わないよ?」
 もう話は済んだとばかりに視線を手元の台本に落とした冬馬にそんな言葉を投げかける。洋室の小さなテーブルの上、ガラスの乳瓶には冬馬が試しに作ってみたというプリンが入っていた。数分前までの話だ。
 空になった乳瓶の横に背くらべをするかのように鍵を並べていると、冬馬はふ、と翔太を一瞬だけ横目に見て、「それでもいい」と呟いた。てっきり「使わないなら返せ」と言われると思っていたのに。
 だって、これは鍵なのだ。冬馬の部屋の。それを翔太が持っていても良いということは、いつでもこの部屋に入って良いということと同義なのだろう。けれど、翔太は冬馬に宣言した通り、この鍵を使うつもりは毛頭なかった。
 マンションのエントランス、自動ドアは顔見知りになった管理人の中年男性に頼めばいつだって開けてもらえる。玄関の前に立ち、インターホンを鳴らす瞬間。冬馬はどんな顔で迎えてくれるのだろうと想像する瞬間。そして実際に冬馬が扉の間から顔を出す瞬間。翔太はそれがたまらなく好きだった。
「翔太」
 指を挟んで台本を閉じた冬馬は、空いているほうの手でちょいちょいと翔太を呼びつけた。翔太は鍵を手放すとテーブルに添って移動し、冬馬の目の前に座り込んだ。難しい顔をしている冬馬を覗き込めば、指先で顎の下をするすると撫でられる。まるで猫にでもなったような気分だった。けれどどちらかといえば翔太は自分のことを犬だと思っている。それも、愛くるしいチワワのような。
「ん」
 指先の動きが止まって顎を上向きに固定される。あ、と思ったときには冬馬の唇と触れ合っていた。挨拶のような軽いキス。唇を閉じたまま触れるだけ。冬馬から贈られるキスはいつもそんな感じだった。
 また、あの、舌を使って内側に触れるようなキスもしてみたい。けれど、ああいったキスはまだまだ冬馬には早いらしい。いつだったか、いたずら半分で唇を舐めてみたことがあったのだが、冬馬はその瞬間翔太から勢い良く離れて、口を金魚のようにパクパクと開閉させていた。これまた金魚と同じように真っ赤な顔をして。意識されているのは嬉しいけれども、され過ぎもどうかと思う。
 何はともあれ冬馬からキスを仕掛けてくるようになったのだ。今はそれが価値ある進歩だと思うより他ない。翔太はほくそ笑みながら、冬馬の唇を受け入れていた。
「……例えばだけどよ」
 額同士をコツンと合わせて冬馬が口を開く。
「鍵を渡してるってことは、仕事から帰って来たときおまえが居るんじゃねえかって期待ができるだろ? そりゃあほぼ毎日顔見てっけどよ、ソロの仕事が入ったときとか……ってこら、笑うな翔太」
「あはは、ごめんっ……そうだよね。僕が居たら冬馬君、すっごく嬉しいに決まってるよね」
「自信満々に言われっとむかつくな」
「もー、拗ねないでよ。……うん、そういうことなら使おうかな。たまにだけどね。冬馬君が寂しくないように、いい子で待っててあげる」
 約束だと言って、小指を絡ませる代わりにキスをする。
 膝立ちになって冬馬の頭を抱えるように抱きしめれば、腰の辺りに冬馬の腕が回った。滑り落ちた台本がバサリと音を立てる。そのまま、よしよしと頭を撫でてみると、冬馬はすう、と翔太の胸元に顔を埋めて深呼吸をはじめた。
 翔太の匂いって、なんつーか、落ち着く。
 いつの日だったか、冬馬は翔太にそう語りかけるようになった。腕の中にいる翔太に「おまえはいい匂いがする」と。
 自分がどんな匂いをしているかなんてわからない。香水をつけているわけでも、香りがきついシャンプーやボディソープを使っているわけでもない。けれど、冬馬が好きだと言うのだからこのままで良いかと翔太は思っていた。姉が持っている雑誌の特集で『彼氏の体臭が好きならふたりの相性はバツグン!』という記事を目にして、気分が良かったこともある。翔太だって冬馬の匂いは好きだ。シトラスの香りも好きだったが、何もつけていない今のほうが好きだと思う。
「……冬馬君、なに、してるの?」
「嫌か?」
「、じゃないけど、ぅ、つめたっ……!」
 カーゴパンツとシャツの間に指を差し入れられて、素肌を撫でられる。指先だと思っていたものが急に硬い金属のようなものになって、その冷たさに翔太はぎゅっと冬馬を抱きしめた。
 ――鍵だ。鍵を手にした冬馬が翔太の肌をなぞっている。その鍵を使って背中や腹に触れる冬馬の意図はわからない。初めは冷たかった鍵も、翔太の体温が移ってどんどん温かくなっていく。その温度に慣れた頃、冬馬君もそれがわかったのか呆気なく鍵を翔太から離した。そのまま、カーゴパンツの尻ポケットにねじ込んでしまう。
「失くすなよ?」
 いたずらが成功して心底楽しいと言いたげな顔が翔太を見上げる。
 あの行動に他意はなかったらしい。翔太は顔を赤くしてわなわなと身体を震わせると、冬馬の肩を思いきり押して突き放した。
「冬馬君のばか! 僕もう帰る!」




真鍮をめぐる一幕/180503