※鬼が狸を食べる


 ねえねえあんたも聞いたかい? 烏天狗様んとこの狸の話さ。あの狸、赤鬼の逆鱗に触れてついに種付けされちまったらしい。鬼臭いったらありゃしないよ。里の中で鬼の匂いがするだなんて前代未聞さね。全く穢らわしい。……ああ、それでうちの主人が烏天狗様に進言しに行ったんだ。仮にも烏天狗様の従者を名乗る妖怪が、鬼の唾つけられたとなりゃあ面目が立たねえ。狸が一匹居なくなったところで不都合なんてありゃしねえでしょう。煮るなり焼くなりして食っちまうか、里の外に追放すりゃあええのにって。そしたら烏天狗様、にこにこ笑って首を横に振ったんだと。ほんに慈悲深い御方だよ、烏天狗様は。あのはぐれ狸にゃ勿体ない御心さ――。

 そんな、妖怪たちの声がさわさわと吹く風に乗って聞こえてくる。三日三晩、里はこの話題で持ち切りだ。持ち切っているくせに、誰も狸には近づかない。烏天狗以外は皆、腫れ物には触りもせずに遠巻きから噂話をするだけだ。
 真夜中。湖のほとりで身に纏っていた着物を全て脱ぎ、狸は湖の中につま先を浸した。秋の頃になり、すっかり冷えた水に触れて尻尾と耳の毛がぶわりとざわめき立つ。すぐに脚を引っ込めると、狸は両手で湖の水を掬い、躊躇いなくそこに顔をうずめた。
 ――鬼臭い。
 それは狸自身も良くわかっている。身体の至るところからあの赤鬼の、鬼特有の野蛮な匂いがするのだ。何度洗っても落ちないその香りはまるで呪いのようで、狸の気を滅入らすには十分な代物だった。

 烏天狗の守護はこの隠れ里だけには留まらない。里の外の小さな山村はもちろん、山を二つほど超えた先の集落にまで及ぶ。妖怪の格はその凶悪さや血筋に比例するものだが、烏天狗は妖怪だけに及ばず、人間にも慕われていた。烏天狗の庇護を求めて遥か遠くの国から移住して来る人間も居るほどだ。
 狸はそんな烏天狗が誇らしかった。そんな烏天狗の手足となりたかった。身の回りの世話をしているだけでは真の従者とは呼べない。紆余曲折、掛け合ったすえに狸は里の外にある村の様子を見に行く仕事を与えてもらったのだ。
「鬼を目にしたら逃げなさい」
 そう、里を出るたびに烏天狗は口を酸っぱくして狸に言い聞かせた。烏天狗は誰からも慕われているが、唯一、赤鬼と呼ばれる鬼からは恨まれていた。二匹の妖怪の間で何があった訳でもない。赤鬼の憎悪が人間を通して烏天狗に向けられているだけだ。赤鬼が人間を殺せば烏天狗は怒り、烏天狗が人間を護れば赤鬼は怒った。何百年も続いてきたのだろう因縁はこの先も解けそうにない。
「鬼を目にしたら逃げなさい」
 あれほど敬愛して止まない烏天狗から言いつけられていたのに、狸は鬼を前にして逃げ出すことができなかった。
 血まみれの赤鬼は酷く美しかった。普段から酷く残酷な目をして、酷く乱暴な言葉遣いをした鬼ではあったが、今は身の毛がよだつほどの美しさを生み出している。狸は背筋を凍らせながら紅色の鬼を凝視していた。
 これは妖怪としての本能だ。妖怪は、自分より位の高い妖怪に目を奪われるようにできている。
「お、烏天狗のとこのちびじゃねえか。なんだよ、俺様に見惚れてんのか?」
 ごうごうと燃える村の真ん中で、返り血で着物を汚した赤鬼が嘲笑う。赤く染まった手のひらが伸びてきたが、払いのけることなど狸にはできなかった。

「――ッ!」
 ばしゃんと大きな音を立てて頭まで沈み込む。あの夜のことはもう忘れてしまいたいのだ。なのに、この身体に染みついた香りがそれを許さない。妖怪たちの噂通りだった。赤鬼との間に起きたことは烏天狗にしか話していないのに、里の妖怪たちは狸から漂う匂いを嗅いだだけでぴたりと言い当ててしまったのだ。
 ――おまえ、鬼と情を交わしたのかい? と。
 それから狸は逃げるように、里の外れにあるこの湖へと飛び込んだ。烏天狗が浄めている湖だ。鬼の匂いなんて浸かるだけで消えるはずだと、そう思っていたのに。
 情けなくて涙が零れる。自分は烏天狗の従者である身の上なのに、敵対している赤鬼の香りをこれでもかと言うほど身に纏っているのだ。それが烏天狗への裏切りにも思えて、悲しみと怒りの間で狸はしとしとと泣くことしかできなかった。
 湖の底でしばらく泣いたあと、狸は涙が溢れる目元を拭った。元はと言えば烏天狗の言いつけを守らなかった自分が悪いのだ。泣く権利なんてない。後悔先に立たずというやつだ。この匂いは次に赤鬼に逢ったときに消してもらおう。そう決意して、狸は湖から上がった。
 ――そのとき。
「狸は狸鍋にして食うに限る。これは人間の言葉だぜ?」
 湖を、陸を、狸を照らしていた月明かりが一瞬にして消える。黒い雲を背にして、赤鬼が空に浮いていた。
「あ、赤鬼っ……!」
「ようたぬき、三日ぶりだな。烏天狗の野郎はどうしてる? 襲撃でもされるんじゃねえかと楽しみにしてたんだが、あの天狗一向に来やしねえ。もしかして捨てられたか?」
「すて……!? 御主人はそんな器の小さな妖怪じゃありません! いつだっておいらのことを目に掛けてくださいます!」
「ふうん? ま、どうでもいいけど」
 降下した赤鬼が湖の上を歩き、陸地を踏む。赤鬼はびしょ濡れの狸に手を伸ばすと、顎を掴んで頬に舌を這わせた。
「ひっ、」
「嫌がるなよ。あんなに愛し合った仲だろ?」
「あ、愛し合ってなんか、ないっ」
 あの夜、赤鬼に無理やり暴かれた身体が震えだす。痛くて熱くて、溶けそうだった。それこそ、鍋の具にでもされて一思いに食べられたほうが良かったんじゃないかというほどの辱めを受けたのだ。今だって、逃げ出したくて堪らない。
「……本当に忘れちまったのか?」
 膝裏に手を差し入れられて持ち上げられる。片脚で立つことを強要されて、狸は不本意にも赤鬼にもたれかかるような体勢になってしまった。脚の付け根に赤鬼の股間を押しつけられて、息を呑む。
「や、やだ……っ!」
「そうやって最初はいやいや言ってたけどよ。おまえ、最後のほうは自分から脚開いて腰振って、ずいぶんと気持ちよさそうな声で鳴いてたよな」
 狸の顔にかあっと熱が溜まる。思い当たる節があるらしい。
「覚えてねえならもう一度犯すしかねえなあ」
 そう言って、赤鬼の指先が震える狸の腰を撫でた瞬間。ぽんっと可愛らしい音と共に、狸は少年の姿から本来の獣の姿へと変身した。狸はほとりに脱ぎ捨てていた自身の着物を口に咥えて林の中へ逃げて行ってしまう。
「はは、あんなに慌てちまって。面白えやつ。……なあ、おまえもそう思うだろ?」
 ――烏天狗さんよ。
 赤鬼が振り向いた先には烏天狗が居た。湖の上に浮かぶ姿はまるで風神のようでもある。
「私の従者に手を出すということがどういうことか、わからないわけではないだろう?」
「おまえこそわかってんのか? 里の長が鬼の匂いぷんぷんさせてるやつをそばに置くってことの意味。おまえがあいつを大事に扱えば扱うほど、おまえに心頭してる妖怪は懐疑的になる。残念だが……あいつはもう、戻れねえよ」
「貴様ッ……!」
 烏天狗の怒りに反応して湖の風が竜巻のように吹き荒れる。赤鬼に指摘されるまでもなく、烏天狗もそのことについては理解していた。鬼が手つきを作るとはそういうことだ。鬼の手つきになるとはそういうことだ。誰にも手が出せなくなる不可侵領域。あの狸はもうそういう場所に居る。
「殺し合おうぜ? 烏天狗。俺が死ねばあいつは解放されるし、おまえが死んでもあいつの面倒は俺が見てやるよ。あっちの具合もなかなかよかったしな」
「……安い挑発だな赤鬼。らしくもない」
 反論を口にすることもなく赤鬼が嘲笑う。
 そもそも人間に対する憎しみだけで生きてきた鬼が、狸なんかを餌にして烏天狗を呼び寄せたこと自体が不思議でならないのだ。確かにあの狸は烏天狗の従者ではあるが、失ったところでどうというほどの存在ではない。なぜなら烏天狗は妖怪と人間から与えられる信仰によって烏天狗となるからだ。そのうちの一匹が消えたところで痛手になるはずもない。赤鬼はもちろん、狸すら知っていることだった。
「おまえを殺しておまえが囲ってる人間どもを殺す。俺の望みはそれだけだ」
「……愚かな妖よ……」
 狸が死んだのはそれから十日後のことだ。

 ところで、がしゃどくろという妖怪が居る。里に属さず仲間と群れることもなく、がしゃどくろは妖怪間の情報を手に生計を立てていた。優男のような風貌をしているが、その実、この世のすべてに絶望している妖怪である。すべてに絶望しているから、すべてを敵に回すことができる。
 此度の顛末。黒幕はこのがしゃどくろであり、仕組まれたものであったらしい。舞台装置として選ばれたのは烏天狗。赤鬼は利用されただけに過ぎない。けれども真相を知ったからといって、赤鬼と烏天狗の間に続いた因縁が消えることもない。争いに原因を求めるのは人間だけだ。
「……どちらも、死ぬことはなかったな」
 自慢の翼も折れ、満身創痍の肉体で烏天狗が吐き捨てる。雪女が死んで、狸が死んで、がしゃどくろが死んで。そこに赤鬼か烏天狗の名が連なるはずだった。なのに二匹の妖怪は生きている。
「決着がつかねえってことは、そういうことなんだろうぜ」
 口の中に溜まった唾を吐き捨てると赤く滲んでいた。死闘のすえにどちらも生きているということは、実力に差がないということだ。妖怪は絶対的な実力差がなければ致命傷を負うこともない。烏天狗と鬼が同等だと、この場で明らかになってしまった。
 烏天狗の身を案じているのか、里の妖怪たちが木の影からひそひそと二匹の様子を伺っている。赤鬼はすっかり興醒めしてしまい、武器にしていた金棒を背負った。
「……お、ちびじゃねえか」
 崩れた地面の上に一匹の狸が転がっている。小さな獣の姿をした狸からは未だに鬼の香りがする。赤鬼は狸の亡骸に近づくと、狸にしては珍しい模様の尻尾を掴み上げた。
「赤鬼、おまえ、何をするつもりだ」
「……言っただろ? こいつはもう戻れねえ」
 だから俺が貰っていく、と。
 それだけを告げて赤鬼は森の中へと歩き出した。
 ――これが、烏天狗が最後に見た赤鬼の姿だった。

「烏天狗なら手厚く弔ってやるんだろうが……ま、鬼には鬼の習わしってもんがあってな」
 住処にしている縄張り近くの一番高い木に登って、赤鬼はふうと息を吐いた。腕の中に抱えた狸は刻々と冷たくなっていく。赤鬼は砂埃で汚れた毛をそろりと撫でた。そして、がしゃどくろに切りつけられた傷にそっと指先を這わせて伸びた爪を押し当てると、躊躇いなくその肉を引き裂きはじめた。ぐちぐちと嫌な音を立てながら器用に腹を裂き、まだ生温かい肉の中から目当てのものを取り出す。
「……は、ちっちぇえの……」
 真っ赤に染まった手のひらの上に乗せたのは、紅葉ほどの大きさの心臓だ。赤鬼は狸の心臓を持ち上げると自身の唇を寄せた。柔らかな肉に口付けて、歯を立てる。
 妖怪が妖怪を食らう。それは妖怪が相手の力を吸収するための唯一の方法だ。しかし鬼に限ってはそうではない。手つきが死ねば、それが妖怪だろうが人間だろうが鬼は余すところなくすべてを食べてしまう。
 命を落としたところでその肉体から鬼の香りが消えることはないのだ。穢らわしいなどと囁かれてぞんざいに扱われるくらいなら食ってやるのが礼儀だと、まだ鬼ヶ島があった頃、兄貴分だった鬼が言っていたことを赤鬼は覚えていた。
「心配しなくても、俺がぜんぶ食ってやる。血も肉も骨も……おまえは俺のもんだ」
 口元を狸の血で汚した赤鬼が酷く優しげな声色でごちる。
 その言葉を、秋の月だけが聞いていた。




紅讃歌/180912