神様ありがとう。わたしはもうこの言葉を何十回唱えたかわからない。本当に感謝するべきは両親と自分自身なのだと思いつつ、わたしは神に感謝することをやめられなかった。天野という名字であること。顔だってそこそこに美人であること。何よりもこの大学と学部を選んだこと。そして一年だけ留年してしまったこと。まあ、留年は自業自得なので感謝するべきことではないんじゃない? とは思うけど。それでもこのすべての出来事が絡み合って今があるのだから。
 わたしの通う大学にはアイドルがいる。今をときめく人気アイドルの天ヶ瀬冬馬。そしてわたしは冬馬とペアを組むことが許された唯一の女なのだ。このまま大学生活なんて終わらなければいい。そう強く思う。だって彼とペアが組めて、一緒にレポートが作れるなんて奇跡は人生三回やり直したって体験できないだろう。神様ありがとう。
 冬馬は学業を優先しているわけではないらしく、大学に顔を出す日のほうが少ないけれど、それでも顔を出した日は必ずわたしに声をかけてくれる。課題を任せてしまってすまないという謝罪のためだ。そんなの気にしなくていいよ、と笑うわたしに冬馬はほっとした顔をしてサンキューな、と笑いかけてくれる。アイドルの笑顔がこんな至近距離で見れていいのか? と内心はかなり興奮しているのだけれど、それを顔に出したことはない。天野さんは気立てのいいお姉さんキャラなのだ。
 わたしがそこそこの美人であることも幸いしているのか、周りの女子たちが妬みや恨みをぶつけてくることは少ない。むしろ、天野と冬馬っていい感じじゃない? と、からかってくるような子たちばかりだ。ええ? そんなことないよーとか言いながら、満更でもないことは許してほしい。だって相手はあの天ヶ瀬冬馬なのだ。トップアイドルに一番近いと言われているジュピターのリーダー、天ヶ瀬冬馬なのだ。テレビで見るよりも格好よくて、けれど学校では年相応に男子とはしゃいでいて、笑うと案外かわいかった天ヶ瀬冬馬なのだ。
 わたしはそれまで彼のファンというほどでもなかったが、実際に会って言葉を交わして、たったそれだけで好きになってしまった。きっと、冬馬がアイドルじゃなくたって好きになってしまっていたと思う。もしも冬馬がアイドルじゃなかったら、この恋も成就したのかもしれない。だってほら、アイドルは恋愛しちゃ駄目なんでしょう? わかってる。わかってる。だからわたしは今日もただの同級生として、冬馬と肩を並べてレポートを書くのだ。
「あ。やべ」
 冬馬がそう呟いて、震えたスマートフォンのロックを解除した。仕事の連絡が入ったのかもしれない。
 二人きりになるのは周りからの心象が良くないから、わたしたちはいつもカフェテリアでレポートを広げる。女子たちが冬馬見たさに群がってくるのが悩みのタネだけれど、人が大勢いるこの場所で抜け駆けをしようとする馬鹿はいなかった。たまに数人の女子グループが話しかけてくることもあるけれど、冬馬は意外なほど素っ気ない。女性が苦手なのだと、何かのバラエティ番組で北斗に言われていたが、あれは本当のことだったらしい。
 スマートフォンを操作する冬馬を横目に、わたしもノートPCから手を離した。カフェテリアに入ったときに買ったアイスのキャラメルマキアートはもうすっかりぬるくなっている。…仕事なんだろうなあ。何と言っても彼は芸能人だ。今日は久しぶりに会えて嬉しかったけど、仕事なら仕方ない。わたしは冬馬が好きだけど、同時にファンにもなってしまったから。アイドルもがんばってほしいのだ。
「天ヶ瀬くん。もしかして仕事?」
「えっ、いや…ちょっと、待ち合わせしてたの忘れてて」
「時間なら行ったほうがいいんじゃない? 今日はもう進めようと思ってたところまで進んだし、問題ないよ」
 そう言ってあげれば、彼は安心したように息をついた。冬馬に言ったことは嘘じゃない。進めたいと思ったところまでは進んだ。こんなもの、わたし一人でもできないことはないのだし。レポート用紙を束にして、片付けに入った冬馬を見つめたまま、わたしは残りのキャラメルマキアートを飲み干した。
 ――そんなときだった。

「とうまくんみーっけ」

 そんな甘ったるい声とともに、冬馬の背後から白い腕が伸びてきた。
 白い腕はどんどん冬馬の首に絡んでいく。その腕を伸ばしてきたどこぞの女は、そのまま、後ろからギュッと冬馬を抱きしめてしまった。
 ギャーッ! なんて女子たちの悲鳴がカフェテリア中に響き渡る。そうだろう。そうだろう。どれだけかわいくても美人でも、この大学で冬馬が接触を許した女は一人だっていないのだ。なのにこの女は冬馬に抱きついてみせた。皆が見ている前で。見せつけるように。そして冬馬もそれを享受している。皆がパニックになるのは当然だった。
「おう。よくここがわかったな」
「親切なおにーさんに連れて来てもらったからね。えへへ、ナンパされちゃった」
「はあ?」
「しょーがないよ。今の僕、すっごくかわいいから」
 ね? と女が冬馬の顔をのぞき込んで微笑む。その顔はわたしにもはっきり見えたが、確かにかわいかった。どこかで見たことがあるような気もするが、それが誰なのかまで思い出せない。
 …たぶん知り合い、なのだろう。あまりにも馴れ馴れしすぎる。もしかしたらこれが待ち合わせの相手なのかもしれない。彼女、じゃないはずだ。だって冬馬はアイドルで、アイドルは恋愛なんてしないはずで、それ以前に冬馬は女性が苦手なのだし。グルグルと回るわたしの思考を無視するかのように、二人は香水がどうだとか、ランチがどうだとか、親しげな会話を繰り広げている。
 冬馬に触らないで! そう叫んでしまいたかった。けれど、そんなことを言う資格はわたしにはない。他の女子もそうだろう。だって、わたしたちは天ヶ瀬冬馬にとって何者でもないのだから。
「…冬馬君ってけっこう人気者なんだね。学校来るたびに女の子たちからキャーキャー言われて楽しい?」
「んなわけねえだろ。おまえも通えばわかるぜ」
「えー。それ一生わかんないやつじゃん」
「あのなあ…」
 冬馬は自分の首に絡んだ腕を邪魔とも思っていないらしい。テーブルの上を器用に片付けながら、彼女との会話を続けている。私物をすべて鞄に詰め込むと、まだ半分ほど残っているアイスコーヒーのカップを彼女に手渡した。ありがとう、なんて言いながらためらいもなくストローをくわえる女に目眩がする。
「じゃ、天野さん。続きはまた今度、よろしくっす」
「バイバーイ」
 なぜか手を振ってきた女につられて、わたしも手を振り返してしまった。

「ほらほら、ちゃんと見てよ冬馬君。今日の僕かわいいでしょ?」

 椅子から立ち上がった冬馬の目の前で女はくるりと回ってみせる。肩まで伸びたふわふわの髪が揺れて、目が離せない。けれどまあ、格好自体はありがちなコーデだ。このカフェテリアでも似たような格好をしている女子はいる。なのに。
「ん。かわいい」
 そう頷いて彼女の頭を撫でながら、冬馬は一度だって見たことないような笑みを浮かべた。その瞬間、二人の関係を理解する。もう疑いようなんてなかった。
 なんで? どうして? アイドルは恋愛できないんじゃなかったの? 馬鹿みたいだけど、目頭が熱くなる。わたし今、失恋してるんだ。告白もしてないのに失恋したんだ。
 嫌なら見なければいいのに、この二人から目が離せない。だって冬馬が笑うから。わたしは冬馬が好きだから。笑う冬馬をこの目に焼きつけていたかった。
「今日の晩ご飯オムレツとかどう? 僕、朝起きてからずっと冬馬君のオムレツ食べたいなって思ってたんだ」
「…これから飯に行くのにもう夜の話か。すげーなおまえの胃袋」
「育ち盛りだからね。プリンもつけてくれていいよ?」
「つけねーよ。ったく…」
 そんな会話をしながら、満更でもなさそうに笑い、ぴったりとくっついてカフェテリアをあとにする冬馬と謎の女を、わたしも、遠巻きの女子たちも、ついでに男子たちもが無言で見送ることしかできなかった。
 天ヶ瀬冬馬って彼女いたんだ…。男子の呟きがどこかから聞こえる。
 悲しいことにそれを否定できる人間は、この場に誰もいなかった。

 しかしその二週間後、事態は一転する。
 伊集院北斗のエンジェル☆キスにて冬馬に絡んできた謎の女が御手洗翔太であったと発覚したのだ。既視感があったのはそのせいだったらしい。なーんだしょうたんだったのかー、女の子にしか見えなかったー、二人とも仲良いんだね、なんて女子たちは安堵しきっていたけれど、わたしはその事実を知っても心の中のもやもやを消し去ることができなかった。
 …だって、だってあの笑みはどうしようもない愛おしさに溢れていた。好きでしょうがないと目が語っていた。あれで冬馬のことは諦めようと思えたほどなのに、なんとその相手が翔太だったのだ。翔太にああなら、冬馬は、本当に好きな相手にはどんな顔をするのだろう。どんな目をするのだろう。あれ以上なんて、わたしには想像すらできなかった。
 来週には翔太主演の映画が公開される。主題歌をジュピターが担当しているから公開初日に観に行こうと思っていたのに、テレビや雑誌で冬馬と翔太を見かけるたびに、あの光景がよぎってしまって駄目だった。翔太に微笑む冬馬の顔を思い出してしまって駄目だった。
 あの女が翔太じゃなくて、本当に冬馬の恋人だったらよかったのに。
「神様ってほんと理不尽だわ」




エゴイスティック☆タイフーン/171221