やっちゃった、と思ったのは掴んだグラスの中身をぶちまけたあとのことだった。グラスの中にはドリンクバーで注がれたカルピスが入っていた。
 冷たく薄い乳白色を顔面から被った冬馬は何が起きたのか理解できずにぱちぱちと瞬きを繰り返している。何だろこれ、ガンシャみたい。この場にそぐわないことを思ったが、中腰になっていた身体をすとんとソファに落とす。
「……僕、悪いことしたなんて思ってない」
 目を逸らし、唇を尖らせて吐き捨てた。
 直後に、大丈夫ですかお客様! と清潔な布巾を持ったウェイトレスがテーブルに近寄って来る。冬馬は大丈夫っすとアイドルらしい笑みを浮かべて布巾を受け取ると、濡れた伊達眼鏡を外した。

 冬馬は怒っていた。二日前のテレビ収録での翔太の行動が気に入らず、こうして叱咤するため、ファミレスに呼び出す程度には怒っていた。
 その日、翔太が倒れたのは舞台裏に捌けてすぐのことだった。
 熱があったらしい。三十八度八分。知っていたのは翔太本人とプロデューサーだけだった。プロデューサーには止められたが、翔太は出演することを選んだ。この番組が新曲のテレビ初披露枠ということも重なっていたのだろう。歌番組でのトークと新曲の披露。頭のほうはふらふらだったが、完璧に踊れるという確信があったのだ。事実、翔太は体調不良を冬馬と北斗に気づかれることなく収録をこなした。倒れた翔太を受け止めたのはプロデューサーだった。
 次の日、翔太は休暇をもらい、さらにその次の日、冬馬に呼び出されることとなった。
 仕事での失態だ。冬馬に何を指摘されるかなんて想像に容易い。熱も下がり、すっかり元気になった翔太はめずらしく「会いたくないなあ」などと思いながら、少しでも冬馬の機嫌を取れるようにと彼からのおさがりを使って自身をコーディネートした。
 トレーナーに伊達眼鏡。サイズが大きいダッフルコートはまだ数回しか着込んでないせいか、冬馬の香りがする。スニーカーも冬馬から贈られたものを選んだ。
「お疲れ」
 四人掛けのテーブル席に座っていた冬馬に声を掛けると「おう」と抑揚のない相づちが返ってくる。どれくらいの時間待っていたのだろう。水滴をまとったグラスを見つめながら向かい合わせになるように腰を下ろした。
 あーもうやだ帰りたい。なんで北斗君居ないの。
 冬馬が席を外すように言ったのだろう。ジュピターのリーダーとして。以前、北斗が似たようなことをしたときに翔太はそんなことを言われた覚えがある。
 気が滅入りながらダッフルコートを脱いでいると、名前を呼ばれた。
「おまえ何飲む? ついでだ。取ってきてやる」
「えっ。あ……じゃあ、カルピス」
「ん。飯も食うなら頼んどけよ」
「はーい」
 とは返事をしたものの、怒られるとわかってて自分一人だけのんきに食事を摂れるわけがない。
 ごめんなさいと謝って、冬馬からの叱咤を受け止めて、次からは気を付けると反省の色を見せればいい。そう思いつつも翔太の気持ちは沈むばかりだった。
 冬馬の怒りは最もだと思う。テレビ収録に関しては事なきを得たが、次の日のスケジュールには穴を開けてしまったのだから。
 プロならば体調管理も仕事のうちだ。けれど、あのときは本当に、できると思ったのだ。実際、トークもほどほどに、ステージではミスの一つもなく踊れた。間違った選択をしたとは思っていない。調整が利かない仕事を優先させて何が悪いのだろう。
「翔太。おまえなんであのとき熱があるって俺たちに言わなかったんだよ」
 両手にグラスを持った冬馬が戻ってきて早速本題に入る。
 翔太は差し出されたストローをグラスに挿して、冷たいカルピスを一口だけ吸った。
「……出るなって言われると思ったから」
「そりゃ言うだろ。つーかそれ、プロデューサーにだって言われてたんじゃねえの?」
「言われたよ。言われたけど、僕はできるって思ったし、できた。だって新曲の初お披露目だったんだよ? 三人揃ってなかったらおかしいでしょ」
「で? できるって思って出て、終わった瞬間にぶっ倒れたわけだ。……倒れたのが本番中だったらおまえ、どう責任取るつもりだったんだ? 共演者の事務所や局の連中に頭下げんのはプロデューサーの仕事だ。次からは気を付けて、で済む話じゃねえ。クレームはぜんぶ事務所に来るんだよ。所属アイドルの体調管理もできない事務所とは今後の付き合いを考えさせてもらうって言われるかも知れねえよな。そういうところ、おまえ想像できてたわけ?」
 冬馬の言葉がつきつきと胸に刺さる。こういうとき、冬馬のアイドルとしての意識の高さには舌を巻く。
 あり得たのかもしれない最悪の未来を思い、翔太はぐっと息を呑んだ。想像なんて微塵もしていなかった。する必要がなかった。だって翔太の頭の中には完璧にダンスを踊る自分たちの姿しかなかったのだ。これはきっと翔太にしかわからない、第六感のような、感覚の領域だ。伝えたところで納得してもらえるとは思わない。
 冬馬の言い分は正しい。それは理解している。けれど結果として、翔太は本番中に倒れるなどという失態はしていないのだ。
 なのにどうして怒られなくちゃいけないの?
 冬馬君だったら辞退できた? 新曲だよ? テレビ初披露だったんだよ? 冬馬君だって無理して出たんじゃない?
 口にしてはいけないような考えに支配される。冬馬と喧嘩がしたいわけではないのに、ひどく喧嘩腰な態度でぶちまけてしまいたかった。
「翔太」
 先を促すような澄んだ声が耳に届く。
 口を開いたら最低なことを言ってしまいそうで黙っていると、冬馬は耐えられなくなったのか投げやりに、はあ、と深いため息を吐いた。それはまるで自分の非を受け入れて謝れと言っているようにも聞こえた。
「なにそれ」
 そんな冬馬の態度に糸が切れたのだと思う。
 翔太はその場に立ち上がり、なみなみとカルピスが注がれたグラスを掴んだ。バシャンと水が弾ける音が辺りに響く。

 濡れた布巾をウェイトレスに返すと冬馬は席を立った。しおらしく俯いている翔太の腕を掴み、無理やり立たせてレジに向かう。二人分のドリンクバー代を払い、恐る恐るダッフルコートを着ている翔太を引きずってファミレスを出た。
 コートから見える、濡れたままのトップスが冬の風に当たって冷たい。翔太はあれから一言も口を利かず、だから冬馬も翔太に声を掛けなかった。
 大通りを走っていたタクシーを拾って家の住所を伝える。部屋に入るその瞬間まで、冬馬は翔太の腕を離さなかった。
「喧嘩売ってんのかおまえ」
 口を開ければ自分でも驚くほど低い声が出た。玄関の扉に押し付けた翔太の身体がびくりと跳ねる。意見する隙も与えず、翔太の唇を自分のもので塞ぎ、舌をねじ込んだ。
 伊達眼鏡同士が当たってカチカチと音が鳴る。うぜえ。引き抜いて投げ捨てた。
「っあ、やだ、冬馬くん」
 廊下に押し倒せば待ってと翔太が喘ぐ。靴も脱がず、コートも着たまま事に及ぼうとしている冬馬を翔太は必死で止めた。けれど冬馬は聞く耳を持たず、以前は自分の持ち物だったトレーナーの中に手のひらを差し入れた。
 翔太が目の前に現れたとき、それがどういう意図であれ、ときめいてしまったのだ。翔太の身を包むダッフルコートもスニーカーもトレーナーも、伊達眼鏡ですら、冬馬が与えたものだった。欲しいと言われて譲ったものもあれば、何を言われることもなく贈ったものもある。
「ふっ…」
 首筋に舌を這わせれば吐息が漏れた。病み上がり相手に何をしているのだろうと思ったが、翔太の行動にむかっ腹が立っていた冬馬はこのまま行為を続行することにした。
 せめて「ごめんなさい」と一言でも言われたらやめてやろう。そう思っていたのに。
「コート、汚れちゃうから…脱がせて…っ」
 冬馬が怒っていることなんて、ファミレスでのやり取りなんて忘れてしまったのか、翔太がそんなことを乞いながら冬馬の濡れた髪をくしゃりとまぜる。ああ、と冬馬は思う。
「おまえ、終わったらまた説教な」
 唇を舐めると甘いカルピスの味がした。




どうしようもない/190310