……あ、この子二十歳になったんだ。
 行きつけの美容室で髪を染めている間の待ち時間。気まぐれに広げたファッション雑誌のコラムで見知ったアイドルが眩しいほどの笑みを浮かべていた。
 通称・国民的弟アイドル。ジュピターの御手洗翔太くんが二十歳の誕生日を迎えたらしい。ちょっと前まで高校生とかそのくらいの年頃だったのに、もう二十歳なんだ。

 ――ジュピターのお二人から何か特別なお祝いはありましたか?
 僕と同じ誕生日のワインと腕時計を貰ったよ。北斗君セレクトなんだって。ワインはまだ開けてないんだけど……腕時計はほらこれ、格好良く撮ってね♪

 ――あっ、もしかして今日のコーディネートは自前だったり……?
 正解☆ この腕時計に似合う大人になれるよう絶賛勉強中。ジャケットは冬馬君の部屋から勝手に借りて来ちゃった。

 ――怒られないといいですね(笑) では、二十歳になってますます魅力が増した御手洗さん。今後の抱負などお聞かせください。
 うーん。やっぱり仕事を頑張りたいかな。ダンスももっと磨いて、ファンのおねーさんやおにーさんたちのことをうんと驚かせたい! あとは美味しいものをいっぱい食べたい! 色んな場所に行けたらいいよね~。


 そんな記事を読み進めながら載っている写真を眺める。北斗くんが選んだという腕時計のアップに、冬馬くんの私物らしいジャケットの裾を摘んでいたずらっぽく笑う全身図。
 このページに居るのは翔太くんだけなのに、ジュピター三人の存在を感じて、特別好きってわけでもない私もなんだか嬉しい気持ちになる。まあジュピターの不仲説とか聞いたこともないんだけどね。
「……え?」
 ページを捲って、出演している映画の撮影秘話を読んでいると気がついてしまった。翔太くんの首に掛かったチェーンの先に指輪がちょこんと光っていることに。
 たった四ページのコラム記事。嘘でしょって思って右に捲ったページを左に戻す。翔太くんが紙面いっぱいに写った最初のページにその指輪もバッチリと写っていた。
 華美な装飾もねじれもない、つるりと輝くシンプルな指輪の内側。途中まで隠れちゃってるけどよく見たら日付が彫られている。年は今年のもので……ええと、翔太くんの誕生日? ってことは贈り物なのかな。二十歳だもんね。記念にって家族から贈られててもおかしくない。アイドルだもん。さすがに彼女からのプレゼントってことは……。
 頭の中に『匂わせ』って言葉が浮かぶ。いやいやいやまさかそんな。匂わせってもっと巧妙にやるやつだから。マウント取りたがりの人間がやるやつだから。
 まさかと思いスマートフォンを手に取る。SNSの検索欄に『翔太 指輪』と入力すれば、予想通り深読み合戦が行われていた。そのほとんどが彼女からの贈り物だという想定で盛り上がっている。共演している女優や過去に噂になったアイドル。具体的な名前も目に入ってくる。
 ――これ、マリッジリングっぽくない?
 ショックを隠しきれない悲鳴や過激なファンをたしなめる言葉の中にそんな単語を見つけた。刻まれている日付が本人の誕生日じゃなかったら、私もそう信じて疑わなかっただろう。これが誕生日だからみんな混乱してるんだ。
 雑誌に視線を移し、目を細めて笑っている男の子の輪郭をなぞる。愛されたり恋の行方を邪推されたり、他人事ながらアイドルっていうのは大変な仕事だ。

 ***

 砂浜に差したパラソルの下、翔太はビーチチェアに寝転がってあくびを噛み殺していた。目の前に広がる青い海をサングラス越しの視界で見つめながら、ご機嫌な喧騒に耳を傾ける。
 日本はまだ春のど真ん中だというのに、こちらはもうすぐ本格的な夏入りをするのだという。どうりで暑いわけだ。日陰の中に居ても額にはじわじわと汗が浮き、腰を降ろす前に歩いた波打ち際の感覚がちょっぴり恋しくなる。
 青空の水色をうんと透き通らせて溶かしたような海は眺めるだけじゃもったいない。わかっているのに海に入りたいとは思わない。今だけは泳げない自分の身体が憎らしかった。
 ふんだ、と海水を掛け合う女性二人組みにしかめっ面を向けて、胸の上に転がる指輪を人差し指で掬い上げた。チェーンを通して首から下げている指輪は、どんなときも上向きな気持ちにしてくれる。
『TtoS 20XX.04.20』
 特にこの刻印がいい。自分が誰のものなのかが目に見えて。
 欲しいと望んだことはなかったのに、今は肌身離さず一緒に居たいと思う。ネックレスという形にしているのは恋人の真似だった。私生活ではもちろん入浴中や就寝時も首に掛かっていたあのネックレスは壊れてしまい、今は別のものに変わっている。
 指輪を左手の薬指で掬いながら翔太は数週間前のことを思い出した。女性向けファッション雑誌の仕事で、このネックレスをうっかり外し忘れたまま撮影を受けてしまったのだ。誕生日だからと花束とケーキを用意してくれるような温かな現場。イニシャルはたまたま見えていなかったのか、気を遣って見えていない写真を選んでくれたのかはわからない。
 仮にもアイドルなのに、こういう火種になりそうなものをファンの目に入るところに持ち出してしまったのは明らかな失態だった。SNSで話題になっていたことも知っている。
 彼女、家族、エトセトラ。さて、この指輪は一体誰が贈ったことになっているのだろうか。
 顛末を知る前に翔太は日本を飛び立っていた。恋人と二人きりのバースデーバカンス。指輪もバカンスも、ぜんぶ向こうが望んだことだった。
「何ニヤついてんだよ」
 聞き慣れた声と共に視界が暗くなる。顔に乗せられたそれが、汗ばんで湿ったキャップだと気づいたのはすぐのことだった。嗅ぎ慣れた、なんて言うと変態くさいが、シャンプーと汗が混ざったこの香りは間違えようがない。
 キャップを持ち上げて見上げた先には暑さに参っている顔があった。
「あー……日陰に入っても涼しくねえな」
「風がないからね。冬馬君、暑いなら泳いで来たら?」
 キャップのつばを持って扇いでみせる。冬馬と呼ばれた男は――翔太の恋人は、やれやれとビーチチェアに腰を降ろした。
「一人で行ったってつまらねえだろ。ほら」
 テイクアウト用の紙袋から取り出されたカップの中身は黄色掛かったオレンジ色の液体だ。マンゴーかオレンジか、どちらともかもしれない。
 翔太は指輪から薬指を引き抜くと、手渡されたドリンクにストローを差した。くるくると優しく掻き回せば浮かんでいるミントの葉を巻き込んで、角切りのフルーツが氷と共に泳ぎだす。飲み込んだジュースは冷たく、マンゴーの味がした。
「クリームチーズサーモンとクラブハウス。どっちがいい?」
「サーモン。でもお肉のほうも一口食べたい」
「だと思った」
 呆れたように笑う冬馬の手がサンドイッチの包みを解いていく。その指には――左手の薬指には翔太と揃いの指輪が光っていた。


 今から三ヶ月ほど前のことだ。狭いベッドの中、誕生日を迎える冬馬にプレゼントは何がいいかと訊いたら「左手薬指のサイズ」と返ってきたのは。それは冗談でも聞き間違いでもなかったらしく、冬馬は翔太の誕生日に合わせて指輪を作りたいのだと語り始めた。
「俺が欲しいんだよ。勝手にサイズ測って作ってやろうかとも考えたんだが、こういうのは一人で決めるもんじゃねえしな」
 そう言って、冬馬はクリスマスの朝を待ち望む子どものようにはにかんでみせた。断られるとは微塵も思っていないその笑みに、翔太は退路を絶たれてしまう。他でもない冬馬が望んでいるのだ。嫌なわけがない。ただ、話が飛躍し過ぎている気がして思考がついてこなかった。
 翔太にとって指輪という装飾品は、結婚を決めたカップルが初めて手に取るような、一生を誓い合うために必要なアイテムだ。だから欲しいとも贈りたいとも思ったことがない。
 結婚……と、浮かんだ単語につられてじわじわと頬が熱くなる。動揺を気取られないよう布団を頭から被った。
 それから翔太の誕生日が訪れるまではあっという間だった。例年と変わりなく冬馬と北斗から祝われて、今年は特別だからと腕時計とワインを手渡された。周りの大人たちにとって二十歳という節目は大事なものらしい。いつもなら三人で過ごす夜の予定も家族団欒のためにと空けられていた。
「せっかくの誕生日なのにね。一緒に居てあげられなくてごめん」
「いいって。一番上の姉さんだって帰って来るんだろ? 毎年俺らが独占してんだ。今年くらい家族に祝われてこいよ」
 駐車場に向かいながら冬馬が車の鍵を指で鳴らす。家族のことを持ち出されてしまっては頷くことしか出来ない。
 両手で抱えていた荷物をすべて後部座席に置き、身一つで助手席に乗り込む。運転席に座った冬馬の手には、高級感あふれる紙袋が握られていた。中身がわかりきっているその紙袋をぽんと膝の上に置かれて「うえっ!?」と頓狂な声が漏れる。冬馬はいたずらが成功した嬉しさを隠すことなく顎をしゃくった。
「開けてみろよ」
 促されて、覗き込んだ紙袋の中には黒い箱がふたつ並んでいた。意外と大きなその箱をひとつだけ持ち上げて蓋を開けてみれば、ドラマでしか見たことがない一面ベルベット生地の四角形が現れる。その質感は手に取らなくてもわかった。
「普通はひとつのケースにまとめるらしいんだが分けてもらったんだ。そっちの小さい巾着は持ち運び用のやつな」
「っ……こっちも開けていいの?」
 ごくりと生唾を飲んで絞り出した声は、らしくもなく乾いていた。サイズを伝えてから先のことはすべて冬馬に任せきりで――いや、冬馬が楽しそうにしていたから口を挟むことが出来なかったのだ。
 ケースの真ん中で輝くリングをそっと摘み、目線の高さまで掲げる。ピカピカに磨き上げられた銀色の輪っかには何かが彫られていた。日付は翔太の誕生日を入れると言っていたから、それだろう。
「エストゥティー……僕から冬馬君にってこと?」
「ああ、それは俺のだな」
 ひらりと左手が伸びてくる。はめろということらしい。
 翔太は冬馬の手を取ると、骨ばった甲から爪の先までを食い入るように見つめた。手入れが行き届いているからだろうか。女性に深いため息を吐かせられそうなきれいな指だ。薬指に指輪を引っ掛けて、ゆっくりと根本を目指す。
 誰かに指輪をはめるだなんて、こんな日が来るとは思わなかった。翔太は自分の心臓がドクンドクンと普段よりも早く打ち始めていることに気づいていた。ちらりと盗み見た冬馬は満足げに目を細めていて、きゅうっと胸の辺りが痛くなる。
『僕と結婚してください』
 そんな台詞が頭をよぎったが、このシチュエーションで言える勇気はない。
 無事、薬指にはまった指輪から手を離して、翔太は助手席のシートに背を預けた。余韻に浸るわけでもなく冬馬は紙袋の中からもうひとつの箱を取り出すと、翔太と同じ手順でリングケースを手のひらに乗せ、パカンと勢い良く蓋を開いた。
「ほら、はめてやるから手出せよ」
 言われた通りに左手を出せば優しくさらわれてしまう。迷いなくやってきた指輪が指先に当たり、その冷たさに驚いた。指の大きさに合うように作られた小さな輪は一度も躓くことなくピタリとはまる。
「翔太」
 名前を呼ばれて顔を上げれば、運転席から身を乗り出してきた冬馬に触れるだけのキスをされた。
「誕生日おめでとう」
「……な、なんか恥ずかしいんだけど」
「何が」
「誕生日プレゼントだってわかってるんだけどさ……こういうの、結婚する人たちがやるものだと思ってたから……その、冬馬君とするなんて思ってなかったっていうか」
 翔太のためにあつらえられた指輪を大事に、それでいて隠すように手の甲ごと包み込んで、ぽつぽつと紡ぐ。冬馬は何度かまばたきを繰り返していたが、じっとこちらを見つめたまま口を開いた。
「……俺は、翔太が頷いてくれるなら喜んでプロポーズするけどな。こんな指輪ひとつでおまえを縛れるとも思ってねえし」
 穢れを知らない琥珀のような瞳が嘘ではないと語る。
 翔太は赤くなっていく頬を隠すこともせずに「え? えっ?」と狼狽えた。そこに冬馬が追い打ちをかける。
「なあ。俺と結婚してくれよ、翔太」
 熱くなった頬を指先で撫でられて、その心地良さについ目を瞑ってしまいそうになる。いつも人肌で温かい、冬馬の手は気持ちが良い。
 好きだと思う。手だけではなく冬馬のことが。ずっとずっと、出逢った頃から今日に至るまで、変わらずにこの人のことを好きでいる。
「返事は?」
 子どもに質問するかのように首を傾げられて、うっ……とたじろぐ。さっきからずっとペースを乱されっぱなしだ。からかいの言葉やスキンシップに顔を赤らめていたのはいつだって冬馬のほうだったのに。すっかり可愛げがなくなってしまった冬馬に翔太は狂おしいほど翻弄されている。
「……よ、よろしくお願いします……」
 それだけを口にすると冬馬は「おう」と微笑み、何事もなかったかのようにキーを回して車のエンジンを入れた。


「海に来たって日焼けもできないし泳ぎもしないのにさあ、こうやってだらだら過ごすのはちょっとした冒涜だよね」
「いいんじゃねえの。またジェットスキーで三半規管やられたいって話なら付き合うぜ?」
「あれだけ荒い運転しておいてなんでそんな得意げなの? 僕は冬馬君と違って繊細なんだからもっと丁寧に扱ってよ」
「繊細ねえ……」
 パラソルの内側を見上げながら当たり障りない会話を楽しむ。日本で売られているものより一回り大きなクリームチーズサーモンのサンドイッチを食べて、程良い睡魔に襲われているところだ。一口だけもらったクラブハウスサンドも美味しかった。
 今回の弾丸旅行を決めたのは冬馬だった。誰も自分たちのことを知らない場所に、同性同士が手を繋いでいても腕を組んでいても稀有な目で見られない場所に来たかったらしい。あのときは本気だったが、どこか非現実的で夢見心地だった『結婚』がここでは当たり前にできるのだ。
「Vacation? Honeymoon?」
 タクシーの運転手から始まり、すれ違った小太りの女性までもが愉快な単語を浴びせてくる。どうしたって浮かれた二人組みに見えるのだろう。否定するのも野暮だと左手を上げて笑う冬馬はどこか照れくさそうで、それ以上に楽しそうだった。
 この島に来てから、冬馬ははめた指輪を一度も外さずに過ごしている。翔太の首にも同じ指輪を通したチェーンが掛かっている。
 彼女、家族、エトセトラ。この指輪の贈り主が冬馬だと思う人間はきっとファンの中には居ない。居てはならない。みんな、思い思いの想像を巡らせて自己完結するのだろう。
 そして、冬馬と翔太がアイドルという生き物であるかぎり、事実を明かす日は絶対に来ない。
「ねえ冬馬君」
「あー?」
 冬馬の荷物から誘拐していたサングラスを外して起き上がる。素肌に羽織っただけの薄手のパーカーがふわりと吹いた風を受けて膨れ上がった。
「次来るときはちゃんと書類準備しようね。お望み通り、一生お世話させてあげる」
 目と目が合うように覗き込んで宣誓すれば、言葉の意味を理解したのか頬や首すじがだんだんと赤くなっていく。そんな冬馬の反応に、してやったりと翔太は歯を見せて笑った。




ヴィリジアンに祝福を/200327