※Jupiterの移籍先がゴールドプロです

満月の夜に一人で眠ることができなくなった。
長く伸びた爪に歯を立てながら襲い来る衝動を噛み殺す。照明を落として真っ暗闇にした部屋はしんと静まり返っていた。ただひとつ、規則的な呼吸音を除いて。
すうすうと安心しきった寝息は俺に対する警戒心の無さを表しているようで気分が良かった。掛け布団を剥ぎ取り、眠るときは必ず抱きしめているクッションをそっと掴んで足元へ放り投げる。俺のほうを向いている身体の肩を押して仰向けに倒すと、その上に跨った。
寝間着に使えと言って貸していたTシャツを鎖骨までたくし上げれば暗闇の中に白い上半身が浮かび上がる。胸に膨らみがあるわけでも腹筋が割れているわけでもない、そこにあるのは年相応の平坦なシルエットだった。
頬を撫で、親指で唇をなぞり、上下に動く胸元へ指先を滑らせる。身体の線は暗闇の中に居てもよくわかった。
……爪を、鋭いナイフに見立てて胸から臍まで一直線に引きながら考える。本当に皮膚が裂けて血が滲んだら、俺はそれを喜んで啜るんだろう。傷口を愛撫しながら、こいつの身体からあふれ出る液体を一滴も零すことなく、ああ美味いと舌鼓を打つんだろう。
確信めいた妄想に頭をくらりとさせながら両手をベッドにつく。

「翔太……」

剥き出しの首すじに唇を寄せて口を開けば、溜まっていた唾液が糸を引きながら垂れ落ちていった。
口の中はこんなにも潤っているのに喉が渇いて仕方ない。腹が減って仕方ない。唇は干乾びて、このままひび割れてしまいそうだ。

「――っ!」

肉に歯を立てて噛みつこうとした寸前で我にかえる。
誰に咎められたわけでもないのに、ぎくりと硬直した身体が今は何よりも誇らしかった。目の前の、それはもう極上の食事に早くありつきたくて、なのにどうしてもありつけない。たとえ俺が俺に流されたとしても、翔太はきっと「しょうがないなあ」と笑って許してくれるはずだ。
だが何もしないと言って家に呼んである手前、約束を破ることはできなかった。それは俺が俺であるために強いた枷だった。
濡れた口元を拭い、ゆっくりと上体を起こして唯一触れることができる場所に唇を近づけた。薄く開いた唇の隙間から舌を入れて濡れた肉を舐める。この味だと思った。意識すればするだけ腹の奥から全身に向かって痺れるような快感が走る。

「っは、翔太、翔太……!」

喉を潤す。そのためだけに生温かな口内を無我夢中で犯す。じゅるじゅると聞きたくもない音を立てながら掬い取った唾液を飲み下して、熱がこもった己の下半身を布地の上から撫でた。心を置きざりにして先走る身体に嫌気がさす。
俺は、俺がこうなった理由を知っていた。
何もかも、自業自得だった。


***


子どもの頃から他人の血や体液に触ってはいけないと言いつけられていた。
理由はわからない。もしも破ってしまったらどうなるのかという疑問に、母さんは病気になるとか怖いことが起こるとか、ガキだった俺を怯えさせるには十分な言葉で説き伏せてきた。
世界を教えてくれる人がそう言うのだから間違いないと疑うことなく、俺は人間の内側は怖いものなのだと信じて生きていた。
母さんが居なくなったあともそうだ。
他人の血には触らない。回し飲みなんかも徹底的に回避して……どころか、人に触れないようにして生きてきた。
親父と離れて暮らすことが決まったとき――俺がアイドルとして生きることを誓ったときに初めて「母さんに言われたことだけは守れ」と釘を刺されて、親父も知っていたのかと驚いた。
何か知っているのかと、あそこで訊くことができていれば未来は別のものになっていたのかもしれない。あのとき俺は、掴んだ夢と将来への期待で頭がいっぱいだった。目の前に吊り下げられた秘密にも構う余裕がなかった。
そして俺は、母さんの言いつけを破ることになる。

翔太に好きだと告白されたのは黒井のオッサンと縁を切ってしばらく経った頃のことだった。告白といっても「好きっていうか好きっぽい? 好きなのかも? うーん。冬馬君はどう思う?」みたいな、翔太自身もよくわかっていないのか小首を傾げて俺に判断を委ねるような、そんな告白だった。
だから俺は「勘違いだろ」と突っぱねてその話を終わらせた、つもりだった。
どこの事務所にも所属していなかった数ヶ月の間、俺たち三人が行動を共にしていた時間は想像よりもずっと多く、仕事を得るための交渉や資金繰りは最年長の北斗に頼りっぱなしで、俺は翔太と一緒にスタジオに籠もることも少なくなかった。
次、ファンの前に立つ日がいつになるかわからない。だから磨けるものはとことん磨いておきたい。忘れられないように、飽きられないように、誰の期待も裏切らないように。そんな想いで何度も踊ったダンスを繰り返し練習する毎日。俺たちは俺たちのできることをしようぜ、という提案に翔太は文句も言わずに付き合ってくれた。
その日だって、いつもと変わらない時間を過ごしていたはずだった。額に垂れ落ちる汗を拭った矢先、鏡越しに目が合った翔太がそういえば、と口を開くまでは。

「――僕、冬馬君のこと好きみたい」

俺は兄弟というものを知らなくて、翔太は姉貴たちに囲まれているから、互いに距離感がおかしなことになっていたのかもしれない。背中や腕に抱きついてくる翔太を俺は受け入れていたし、逐一世話を焼いている自覚もあった。
勘違いだろ。突き放すような言い方になったが、翔太は気にしていないのか「だよねー」と笑ってくれた。人を手紙で呼び出しておいておどおどするような女とは違う、やけにからりとした振る舞いが印象的だった。

「でもやっぱり好きは好きだよ。冬馬君おもしろいから」
「面白いって……翔太おまえなあ、」

壁を背に、持ち込んだペットボトルのキャップを回し開ける。隣にやって来た翔太を横目に見つめながら中身を呷った。

「冬馬君はアイドルに恋愛は必要ないものだって思ってる?」
「、そういうわけじゃねえけど……」

北斗みたいなやつは特殊なのかもしれないが、アイドルが恋人を作るのも結婚するのも現実に起こり得ることだ。俺たちにも日常はあるのだから、ファンを裏切らないことと恋愛をしないことはイコールで結びつかない。
言葉尻を濁したままはっきりとした答えを言えずにいると、リュックから取り出したタオルを首に掛けた翔太がふうと息を吐いた。

「……僕、恋とかよくわからないんだよね」
「はあ? 人に告っといてなんだそりゃ」
「だって冬馬君とならいいかなって思ったんだもん」

当てにしていた期待が外れたような声色で俯かれ、こっちが居たたまれなくなる。翔太らしくない。冗談にしては重い反応だ。
……他人から好きだと言われたことは今までだってあった。アイドルになってからはその頻度も増えたように思う。俺の答えは決まって「悪い」で、泣き出す女やふっきれたと感謝する女、中には詰め寄ってくる女まで居て、反応は様々だった。
女は不思議な生き物だ。それまではこそこそと影ではしゃいでいたのに、好意を冷たくあしらえば蜘蛛の子を散らすように俺への関心を無くす。
翔太も同じなんだろうか。翔太も、俺のことはもうどうでも良くなるんだろうか。
静まり返ったスタジオに俺と翔太の二人だけ。頭でも撫でてやろうかとキャップを握りしめていた手を浮かせたが、結局どこにも触らないままスポーツドリンクを飲み下した。

ぜひうちの事務所に所属してもらえないかという打診を受けたのは、百人程度しか入れることのできない箱で四回目のライブを終えた日のことだった。
名刺を受け取ったのは北斗で、頭を下げてきた相手と言葉を交わしたのも北斗。俺はそいつの名前が書かれた名刺を眺めて、羅列された漢字の読み方がわからずにふうんと相づちを打つことしかできなかった。

「俺たちにとっても悪い話じゃないからさ。少し考えてみないか?」

よほど好印象の大人だったらしい。北斗の目がきらきらと輝いている。

「……そうだよな。いつまでもおまえ一人に負担をかけるわけにはいかないよな」
「ううん。俺が心配してるのはもっと先の話だよ」
「先?」
「黒井崇男の名前はこの業界じゃ有名すぎるってこと」

久しぶりに聞いたその名前に嫌でも顔がしかむ。事務所を飛び出した俺たちが受けた洗礼の大半はオッサンが元凶だった。

「みんな黒井社長が怖いんだ。あの人と喧嘩別れした俺たちを引き取ったらどうなるか、わかったもんじゃないって」
「はっ……! オッサンは俺たちのことなんか眼中にねえっつーのにな」

ガキみたく拗ねた言い方になった。自己嫌悪に陥るより先に目の前に座っていた北斗が頬を緩ませる。俺は自分の態度を誤魔化したくて自販機で買っておいた缶ジュースのプルタブを引いた。炭酸の泡がこぼれる前に飲み口へと吸いつく。

「では質問ですリーダー。ジュピターが今よりもっと大きな舞台に立つために必要なものはなんでしょうか?」
「あ? あー……知名度? は、さすがにあるよな。ライブもまあ、やれてないこともない。ならメディアへの露出だろ」
「正解」

こればっかりはどうにもね……と、柔らかだった北斗の表情にすっと影がさす。悔しそうに「力不足でごめん」と肩を落とした北斗に、俺はすかさず「おまえのせいじゃねえよ」と声を掛けた。
事務所を辞めてから今日まで、俺たちはテレビ番組への出演が一切できていない。世話になった番組のディレクターからも、ぜひまた出演してほしいと肩を叩いてくれたプロデューサーからも連絡はなかった。
黒井崇男という男の存在がジュピターをあの地位まで押し上げていたんだと、俺は北斗と翔太の三人きりになって初めて痛感した。
だからこれは北斗一人に責任を押しつけていい話じゃないんだ。こんな煙草臭い部屋でくすぶっていても仕方がないことくらい俺だってわかっていた。

「それでも、トップアイドルになるんだろ? 俺たち」
「……おう」

そのためには後ろ盾が必要なのだと北斗は言いたいのだろう。俺はテーブルの上に置いていた名刺をもう一度手に取ると、その固い紙切れを目の高さまで持ち上げた。
……こんな小さな紙切れ一枚に人生を変えられることもある。そう、俺は身を以て知っている。ならいっそ、こいつに賭けてみてもいいんじゃないかと思えた。

「――次のライブも観に来るって言ってたから、そのとき冬馬と翔太にも紹介するよ」

俺の返事を見通していたらしい北斗に先を越されて、やれやれと頬杖をつく。話は終わったとばかりに席を立った北斗は機材搬出の最終チェックをしてくると控え室を出て行った。ついでとばかりに「冬馬は翔太を起こしておいて」と、面倒な頼みごとをされる。

「ったく、北斗も翔太も……」

少数精鋭の事務所だと言っていた。新しく立ち上げたアイドル部門の先導をジュピターに任せたいのだという。駆け上がるか共倒れるかは俺たち次第だ。勝敗が見えない勝負に乗るのは嫌いじゃない。

「……今度こそ、」

俺たちは、俺たちの実力でトップアイドルになる。
おまえは頂点に立つ。俺にそう言い放った男にもらった名刺は今どこにあるのだろうか。


「おい翔太、そろそろ引き上げんぞ」

古びた二人掛けのソファで丸くなり、気持ちよさそうな寝息を立てている翔太を見下ろす。がしがしと後頭部を掻きながら腰を落とし、頬を引っ張ってみたが起きる気配はない。

『好きだよ』

あの日から――翔太が俺ならいいと言って告白してきた日から、俺の調子は狂いっぱなしだった。ふとした瞬間、こいつは俺が好きなんだよなと思うことが増えた。全くと言っていいほど翔太の態度が変わらなかったからだ。
当然のように俺の隣に立ち、笑い、触れてくる。腕や背中にひっつかれるたびに翔太の体温が伝わって、嫌でも意識してしまう。冬馬君、と名前を呼ばれると首の後ろがむず痒い。
距離が近いと、昔はそう言って引き剥がしていたのに。いつから俺は翔太のことを受け入れるようになってしまったんだろう。

「……本当に好きならもっとこう、あるだろ。葛藤みてえなもんが」

拒絶したから踏み込んでこないのか、なかったことにしたいのか。何も変わらない翔太にやきもきしている俺はどうしようもない。
もう一度好きだと言われたら、しょうがねえなと折れてやれる。俺じゃないと駄目な理由を並べられたら、いいぜと頷いてやれる。だから、だから早く。

「俺が好きだって言えよ」

汚れた床に膝をつく。ソファの背もたれに手のひらをつくと軋んだ音が鳴った。眠っている翔太に顔を近づける。目を覚ませばいい。目を覚まさないでくれ。どちらともを願いながら、心臓の高鳴りには気づかないふりをして、薄開きの唇を、唇を――。

「っ、うわああああ!!」

思いきり後ずされば備え付けのローテーブルで腰を強打した。痛い。痛い以上に恥ずかしい。穴を掘るしかねえ。穴を掘って埋まらなければと、どこぞの泣き虫アイドルみたいなことを考えて、馬鹿か俺は! と、もつれ足で部屋の外に飛び出した。

「あれ冬馬。翔太起きた?」
「知るかああああ!!」

途中、すれ違った北斗を無視して男子トイレに駆け込んだ。真っ赤に染まる自分の茹だった顔を見たくなくて、手洗い場の蛇口をひねると勢いよくあふれ出した水に頭ごと突っ込んだ。
……キスをした。翔太に。ほんの一瞬だけだが、確かに唇と唇が当たった。唇で唇に触った。俺から翔太に近づいて、そこばかり見ていたら、したくなって……。

「最ッ悪だ……!」

寝込みを襲うみたいな真似をした自分も、逃げ出した自分も。
顔を上げてぶんぶんと首を横に振る。濡れた髪が貼り付く頬はまだ熱い。鏡に映る俺は、俺が今まで見たことないくらい情けない顔をしていた。

控え室に戻ると翔太は起きていた。まだ眠そうにあくびを噛み殺す翔太に、北斗が起こしたのか自力で起きたのか訊く勇気はなく、俺は自分の荷物を漁って乾いたタオルを取り出した。

「うわ……冬馬おまえ、水被ってきたのか?」
「っせ、急に浴びたくなったんだよ」
「理由は訊かないけどほどほどにね。風邪でも引かれたら困る」

ため息混じりの言葉に、翔太が俺のことをたびたび「お母さんみたい」と言う気持ちが何となくわかった。北斗の場合は次のライブに失敗は許されないという思いのほうが強いんだろうが。
髪を適当に拭いていると名刺を置きっぱなしにしていたテーブルが目に入った。なのに真っ赤な缶だけが見当たらない。

「そこに置いてあったコーラは?」

テーブルを指差したまま北斗と翔太を見る。北斗は首を振り、翔太は閃いたように声を上げた。

「あ、それなら僕が飲んじゃった」
「はあ!? おまっ、なに勝手に人のもん飲んでんだ!」
「だって喉渇いてたんだもん。冬馬君ぜんぜん戻ってこないし」
「誰のせいだとっ……! つーかそれ、北斗は見てたんだろ!? 止めろよ!」
「俺はちゃんと忠告したよ。冬馬が怒るよって」
「そんなの止めたうちに入らねえだろうが!」
「あははっ、冬馬君おもしろーい」

面白いで済むなら警察はいらねえ! 叫びたい気持ちを抑えながらけらけらと笑う翔太に向かって振り上げていた拳をゆっくりと降ろした。

「……っ、時間、もうねえだろ。出るか」
「そうだね。俺たちがここを出ないとスタッフも帰れないから」
「はーい」

テーブルの上にぽつんと乗った名刺を拾い財布の中に仕舞う。まだ完全に乾いていない髪を掻き上げて、扉の近くに置かれたゴミ箱を睨んだ。翔太が飲み干した空き缶はあの中にあるんだろうか。
薄々気づいていた。俺が母さんに言いつけられていることはあまり世間一般的なことではないのだと。確かに、血には触るなというが体液のほうはさっぱりだ。周りのやつらは平気で飲み回すし食い回す。そもそも体液ってなんだ。んなもん普通に生きてたら触らねえだろ。
扉に向かいながらショルダーバッグを肩に掛けていると、翔太がこそこそと耳打ちをしてきた。

「冬馬君って実は僕のことが好きなの?」
「……はっ!?」

突拍子もない台詞に思わず足を止める。後ろを歩いていた北斗が怪訝な顔で俺たちを見ているが、何でもないと言えば「そう?」と納得してすぐ側を通り過ぎて行った。無人になった部屋の電気を消し、扉を閉めている間も翔太は続ける。

「さっき喉が渇いたからって言ったの、嘘なんだよね。唇舐めたらコーラの味がしちゃって……ねえ、冬馬君。僕に何か言うことあるんじゃない?」

己の唇を指先で撫でながら、くるりと丸い瞳が数分前の俺の行為を責め立てる。何も知らない純真無垢を装った小悪魔が笑う。俺に逃げ場はなかった。

「……きょ、今日……これから、うちに来るか?」

これが人間のすることかと心底思う。情けないやら格好悪いやら、捻り出した苦肉の提案に小悪魔はにこりと目を細めて頷いた。


「じゃあ今度のライブ、新しい事務所の人が観に来るんだ」
「……俺もまだ直接話を聞いたわけじゃねえし、ここにするって決めたわけでもねえけど、多分そうなると思う」
「いいんじゃない? これで北斗君の肩の荷は下りるし、僕らはテレビのお仕事にばんばん出られるようになるし、何よりファンの人たちが喜んでくれるしね」

ベッドに腰掛けた翔太が安堵を隠さずに語る。三人きりになったジュピターの活動方針に関して翔太が口を出したことはないが、こいつにも思うところはあったんだろう。もしかしたら俺の知らないところで北斗と似たような話をしていたのかもしれない。

「僕ら、あれだけ好きになってもらったのに急に辞めちゃったからさ。釣った魚に餌はやらないってやつ? 好きにさせちゃった分の責任は取らなくちゃね」
「おう。まずは元気にやってるところを見せないとだな」
「……じゃあ、冬馬君に釣られて宙ぶらりんな僕に、冬馬君はどんな餌をくれるの?」

明らかに話題が変わり、夕食の献立を考えていた思考が固まる。冷蔵庫の中身から視線を外して翔太を見ると勝ち気な目で微笑まれて、背中を蹴られたような心地になった。……この話をするために誘ったのに、俺が逃げ腰になってどうする。覚悟を決めろ俺! 男だろうが!
バンッと冷蔵庫を閉めて翔太が待つベッドへと足を運んだ。

「悪かった。……けど俺は、どうでもいいやつにキスなんかしねえ」

翔太の隣に腰を降ろして吐き捨てる。足を組んで膝の上に肘を置き、頬杖をついて翔太の反応を横目に盗み見る。もう開き直ることしかできなかった。俺は翔太が嫌いじゃない。もう一度告白されたら応えてやりたい、応えたいと思うくらいには。

「翔太おまえ、前に言ったよな。俺とならいいと思ったって。今でも同じこと言えるのか?」
「当たり前じゃん。今度はちゃんと起きてるから……ね、ちゅーしようよ」

距離を詰めてきた翔太が俺の肩にもたれかかる。耳元で囁かれた「ちゅう」に脳天まで熱が沸き上がった。俺は「ちゅう」という単語の可愛さとキスという行為が結びつかずにしばらくの間、おそらくほんの数秒だが固まっていた。
冬馬君? と促すように名前を呼ばれて今日何度目かわからない覚悟を決める。ベッドに腰を掛けたまま翔太と向かい合い、両肩を掴むと必死で声を絞り出した。

「……目、瞑れよ」

きゅっと目を閉じた翔太の顔を見つめていると、顔の火照りがさらに増したのがわかった。好きだと思ったら途端に翔太のことが可愛く思えてくる。庇護欲と呼べばいいのか。今アイスが食べたいと言われたらすぐコンビニに駆け込んで一番高いアイスを何種類も買ってしまうと思う。
翔太が望むなら何でも叶えてやりたいし、甘やかしてやりたい。唇を押し付けながらそう思った。こいつの「冬馬君とならいい」を「冬馬君じゃないと嫌だ」に変えたい。消去法で選ばれるなんてまっぴらごめんだ。

「……な、なんか変な感じ……」

唇を離せば、翔太が困った顔をして目を逸らした。めずらしく照れているのかぎこちない態度の翔太に俺は気分がよくなって、ここぞとばかりに追撃する。

「もう一回してみるか?」
「ん……うん」

翔太の頬を撫でれば、キスの感触を確かめるみたいに唇に触れていた指先がゆっくりと落ちていく。俺は無防備になった唇に近づいて、さっきと同じようなキスをした。
たった一瞬で離れてしまうのは惜しい。もっと長く触れ合っていたい。顔の角度を変えながら何度も唇をついばんだ。鼻から抜ける呼吸音が大きくなっていく。キスをしながら翔太の身体を押し倒し、固く閉じた唇を舐めたのは、もう、本能だとしか言いようがなかった。
俺に何かを言おうとしたのか開いた唇の隙間から舌をねじ込んで、夢中になって口内を荒らす。逃げる舌を追いかけて舐め上げれば微かに甘いコーラの風味が広がって、たまらない気持ちになった。

「とぅ、ん…っ、」

名前を呼ぼうとしながら翔太の両手が俺のシャツを強く掴んだ。おずおずと伸びてきた舌に自分のものを絡ませて、その柔らかさを堪能する。
くちゅりと耳を塞ぎたくなるような音と、触れ合っているところから広がる翔太の温度。気持ちいいっつーのはこういう状態のことを言うんだろう。これなら何時間だってできる。
唾液に滑った舌先が上顎の内側をなぞると、それまで縮こまっていた翔太の身体がびくりと跳ねた。俺を押しのけようと手のひらに力が入り、いやいやと首を横に振られる。
拒絶されるがまま口の中から舌を抜いて顔を上げると、そこにはぐずぐずになった翔太が居た。はあはあと胸を大きく上下させながら呼吸を整えている。涙が滲む目と赤くなった頬に唾液が垂れ落ちる唇。俺は誰かのこんな姿を見たことがなかった。

「…っ、し、死んじゃうかと思った……」

そう言いながら目尻を拭う翔太の手を掴んでベッドに縫い付ける。

「と、冬馬くん…?」

濡れた目が俺をまっすぐに見上げ、濡れた唇が俺の名前を呼ぶ。その潤みを掬いたいと思った。剥き出しの唇に喰らいつきたいと思った。

「……好きだ、翔太」

決定的な言葉を告げれば翔太は驚いたような顔をして、すぐに「勘違いじゃなくて?」と、はにかんでみせた。もしかしたら根に持っていたのかもしれない。その挑発的な台詞を笑い飛ばして額を突き合わせる。

「まあ、口で言うだけじゃ伝わらねえよな」

俺は俺が守るべきこともすっかり忘れたまま翔太にキスをした。やっちまったという焦りよりも、キスはこんなに気持ちいいものなのかという衝撃のほうが大きい。
――怖い思いをするの、冬馬は嫌でしょう?
母さんの言葉と親父の神妙な顔が浮かんだが、それは唇を離して一番に囁かれた「僕の好きも勘違いなんかじゃないよ」という告白にかき消されてしまった。

「冬馬君が好きだから、冬馬君と恋がしてみたい」

手首の拘束を解けば翔太が俺の頬を撫で、横髪を掻き上げた。そのまま「好きだよ」とだめ押しのように告げられる。
きっと、釣られていたのは俺のほうだ。
翔太の声がすっと胸の奥まで沁みて、俺は自分の両足がやっと地に着いた心地がした。


***


新しい事務所への移籍が正式に決まり、ジュピターが再び表舞台に姿を現わしたと世間を騒がせている中、俺はといえば自分の身体に異変を覚えていた。原因の心当たりはある。解決策はわからない。熱があるとか腹が痛いとか、そんな症状ならまだよかった。

「翔太、ちょっとこっち来い」

スマートフォンを片手に北斗と談笑している翔太の腕を掴み、ソファから立ち上がらせる。事務所の人間の目が俺たちに向いたが、気にせず翔太を連れ出した。
二人なら問題ありませんよ、と北斗が周りを宥める声が聞こえる。ここでも北斗任せになっている事実に嫌気がさしながら、それでも感謝せずにはいられなかった。
北斗には俺と翔太の関係を話してある。女好きで『エンジェルちゃん』が口癖のような男に「翔太と付き合ってる」なんてカミングアウトするのは気が引けたが、話さざるを得なくなった。俺が翔太を人目につかない場所に連れ込むことが増えたからだ。

「冬馬君っ、なんかどんどんペース縮まってない? 朝もしたのに、」
「わかってる。すぐ終わらせるから」

男子トイレの個室に翔太を押し込んで鍵をかける。もう何も考えられなかった。

「んぅっ…」

薄い身体を壁に押し付けながら親指で唇を開かせると、俺はすかさず舌をねじ込んだ。濡れた口内を舐めて翔太の唾液を掬い上げる。それを飲み下しながら、やっとありつけたと思った。
喉が渇いて仕方ない。腹が減って仕方ない。
俺の身体に起きている異変はこれだ。どんなに水を飲んでも物を食べても治らない。この飢えは翔太の唾液を摂取しなければ収まらなかった。思い返せば、初めてキスをした日も俺は夕飯を食べなかった。

「、とーまくん…」

唇を解放すれば翔太が小さな声で俺を呼ぶ。
満たされていたのは心じゃなくて身体のほうだったのか、なんて。そんな思考を振りほどくよう首を横に振り、今度はゆっくりと口付けた。翔太の手が俺の肩に添えられる。それだけで受け入れられていると思ってしまった。
キスがしたい。そう誘って翔太を呼び出していたが、俺の目的がキスによるスキンシップではないことくらい翔太はとっくに気づいているはずだ。さすがに自分の唾液が求められているとは思いもしていないだろうが。
舌を絡めていると翔太の後頭部が壁に当たったのか、こつんと鈍い音が聞こえた。びくりと跳ねた舌先に驚いて距離をとる。

「おい翔太、今打ったろ頭」
「……っ大丈夫、だから、先に戻ってて」

鍵を開けた扉を引きながら翔太が俺の背中をぐいぐいと押す。ほんのりと赤らんだ顔を隠すように下を向いたまま翔太は続けた。

「怪しまれるのやだし、僕もすぐ出るから」

カチャリと鍵の掛かった音を聞き届けて、俺は一人男子トイレをあとにした。濡れた唇を舐めながら事務所に足を運ぶ。次の現場に向かう時間まであと二十分しかない。
一週間に一度で満足していたものが三日に一度になり、今では一日に一度の摂取でも保たなくなっている。
実のところ耐えられないほどの渇きでも飢えでもない。ただ、手を伸ばせば触れられる距離に翔太が居るから、つい求めてしまう。自制が利かなくなる。自分がアイドルであることも忘れて。

「今のうちに何とかしないとまずいよな……」

足を止め、尻ポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。連絡帳アプリから親父の名前を探して詳細画面を開く。
母さんの言いつけを破ったこと、そいつの唾液でしか満たされないこと。ただの交際宣言ならまだしも、親に報告するのは気が引ける内容だ。アイドルを極めたいと宣言して関東に残ったのに、恋愛なんかにうつつを抜かしていたのかと呆れられてしまうかもしれない。
通話ボタンが押せないまま画面を睨みつけていると、タイミングよくスマートフォンが震えた。

「うおっ」

声を上げれば通りすがりのスタッフから小さく笑われる。届いたメッセージは翔太からだった。

『さっきはごめんね。続きは冬馬くんちでしよ?』
「――続きってなんだよ!」

その文面を見ただけでじわじわと顔に熱が集まっていく。慌てて窓際に向かい、都会の景色を眺めながら汗ばむ手でスマートフォンを握りしめた。
何か別の意図があるんじゃないかと思い、検索エンジンに『恋人 キス 続き』と入力してみたが俺はすぐに後悔した。セックスという生々しい単語と、その行為のぼんやりとした映像が濁流のように襲ってくる。
翔太とはまだキスしかしていない。二人きりで出掛けてもいないし手も繋いでいない。本当に、キスだけだ。男同士でも付き合っているならそういうことをするのか? そもそもできるのか? 物理的に。
今度は『男同士 セックス』と入力して検索結果を眺めた。……結論、相手が同性でもできるらしい。
何となく、ベッドの上で仰向けに寝転ぶ翔太の姿を想像した。翔太に覆いかぶさって見下ろす体勢になったことがあったからだ。あれがもしも裸だったら?女とだって経験がないのに、相手はあの小悪魔。下手な態度を取れば一生笑われそうな気がする。興奮するとかしないとか以前の問題だ。

「冬馬君? こんなところで何してるの? 先に戻っててって言ったじゃん」

振り向いた先にはけろりとした翔太が居て、ただでさえ火照っていた身体の体温が更に上がった気がした。

「ねえ顔赤いよ。熱でもあるんじゃない?」
「お、ま、え、の、せい! だろ!」

熱でも測ろうとしたのか手を伸ばしてきた翔太を捕まえて軽いヘッドロックを決める。ギブギブ! なんて笑いながら俺の腕を叩いてくる翔太には密着しているのに色気も何も感じない。そのことに少しだけ罪悪感を抱きながら、俺は普段通りのじゃれあいに身を委ねていた。


***


キスをするとき翔太はいつも俺の肩を掴む。
初めは添えるだけだった指先が口の中で舌を動かすたびに強く握りしめてくる。くぐもった声が漏れるたび一緒に跳ねる指が可愛い。翔太は俺に気づかれていないと思ってるんだろうが。
そんな翔太にぐっと肩を押されて、俺は閉じていた目を開きながら顔を離した。

「っ、わり、苦しかったか?」

唇から糸を引く唾液を拭いながら声を掛ける。翔太は突き放したばかりの俺の肩に額をぐりぐりと押し付けてきた。

「翔太?」

名前を呼んでも返事はない。夢中になりすぎたかと、もう一度謝ればそうじゃないと首を横に振られた。

「……僕、冬馬くんとちゅーしてると変な気持ちになっちゃって……っ、なんで、冬馬くんは平気なの?」

顔を上げた翔太は今にも泣き出しそうだった。何が、と視線を逸らせばシャツの裾を伸ばしている左手が視界に入った。隠そうとしている股間はなだらかに膨らんでいる。……ああ、と。驚きや嫌悪よりも納得が先にきた。
キスを中断するのはほとんど翔太からだ。身体が反応する直前でストップをかけていたのかもしれない。もしかして昼間のあれもか? なんて、トイレから追い出されたときのことを思い出す。問いただすつもりもないが、そうだとしてもおかしくない素振りだった。

「別に、俺だって平気なわけじゃねえけど……」

言いながら、説得力の欠片もねえなと思った。
きっと翔太は同じようにキスをしている俺が勃起していないことを不満に感じているんだろう。もしくは恥じているか。同性相手に自分だけが盛り上がるいたたまれなさは俺にも覚えがあった。
ここで見て見ぬ振りをして翔太の矜持を守ってやることはできる。だが、その選択を取れば翔太は二度と俺に気を許してくれなくなるんじゃないかという予感もあった。去るもの追わず。こいつはそういうやつだ。

「……なあ翔太。それ、痛いだろ。俺が何とかしてやる」
「っ、」

下半身に手を伸ばせば触れる寸前で身体がびくりと固まる。
冬馬くん、と不安そうに俺を呼ぶ翔太に任せろと返事をして、横並びに座っていたベッドの中心へと移動した。ほとんど翔太専用になりつつあるクッションを手渡して俺が翔太を後ろから抱きしめるような体勢になる。
そのままカーゴパンツのボタンを外し、ジッパーを降ろし始めた俺の手を翔太が思いきり掴んだ。

「や、やっぱり無理だよこんな…っ! ほっとけばおさまるし、」

だから離してと訴える翔太の顎を掴み、キスを仕掛けた。

「ふっ…!」
「いいから、こっちに集中しとけ」

唇の隙間から舌を差し入れて口の中を掻き回す。
翔太とするキスは気持ちいい。実際、このベッドに翔太を押し倒してキスをしたとき、俺のものは馬鹿みたいに反応していた。生まれてはじめてのキスだった。相手が翔太で――好きなやつで、興奮しないわけがない。
だから、おかしいのは翔太じゃなくて俺のほうなんだ。いつの間にかキスが目的じゃなくて手段になった。舌で拾う快楽に頭の奥は痺れているのに、満たされるのは性欲じゃないなんて。

「……はっ、」

すっかり大人しくなった翔太から舌を抜く。つまんだままのジッパーを限界まで降ろし、翔太のそれを下着越しに触った。汗か先走りか、湿った布の感触が熱と共に手のひらに伝わって、自分の意思とは関係なく喉が鳴る。

「やっ……!」

下着の中は想像通りぬるついていた。先端をそっと撫でればクッションで口元を隠した翔太が緩く首を横に振る。見れば、うなじがうっすらと赤く染まっていて可愛いと思った。
翔太は俺と変わらない男で、触ればしっかりと反応する身体を持っている。なのにどこか未成熟で、俺からすればどうしたって『子ども』だ。アンバランスな存在だ。
この状況を――キスの続きを翔太が望んでいたとして、俺が鋼の意志で踏みとどまらせるべきなんじゃないか? そんな葛藤が生まれた、はずだったのに。
「舐めたい」なんて、最低なことを口走った。


「はあぁぁあ……」

スマートフォンをローテーブルに投げ出してソファに背中から沈む。見た目の割には安物らしくスプリングが大きな音を立てた。

「らしくないな冬馬。ため息なんて」
「そうか? ……まあ、そうかもな……」
「あんまりしけた顔してると社長にどやされるぞ? アイドルなんだからって」
「今はただの天ヶ瀬冬馬だっつーの」

隣に座った北斗からレモン水の入った紙コップを受け取る。社長の方針だか趣味だかで、新設されたアイドル部門にはファミレスのドリンクバーみたいな一角があった。
ドリンクディスペンサーと言ったか。三つ並んだ透明のガラス瓶にはレモンが浮かんだミネラルウォーターだったりオレンジジュースだったりコーヒーだったりが入っている。その光景を見た北斗が自分の部屋にも欲しいとすぐ買いに走ったのは記憶に新しい。
よく冷えたレモン水を一気に飲み干して、俺は返答のないスマートフォンを睨みつけた。

「……翔太は?」

訊けば、北斗はああと閃いたように相づちを打つ。

「冬馬の顔見たくないからって、さっきマネージャー連れて出て行ったけど。……なに、おまえら喧嘩でもしたの?」
「っしてねえよ。楽しそうに言うな」

これがただの喧嘩ならどんなによかったか。昨晩のことを思い返して、翔太にしたことを思い返して頭を抱える。だめだとかいやだとか、普段なら絶対に言わないような台詞を吐いていたのに止まってやれなかった。幻滅されたっておかしくない。

「翔太ってそういうの上手く隠しそうなのにさ、俺にもそっけなくて朝から傷ついちゃった。……冬馬が謝って済む話ならさっさと頭下げなよ」
「……おう」

北斗の圧に、すでに頭を下げたあとだとは言えず、背もたれに後頭部を預けて天井を見上げた。
翔太に掴まれた髪の根元がまだ痛む。マッサージするように地肌を指先で押せば爪が食い込んで、その痛みに顔をしかめた。切ったばかりなのにもう伸びてきたのかと億劫な気持ちになる。自分の爪と向き合う時間すら惜しい。

『……帰る』

そう、顔を上げた俺に向かって翔太がぽつりと呟いた。キッと涙目で睨まれて、情けない話だが、そこで初めて自分がやらかしたことの大きさを自覚した。喉に絡む液体を何とか飲み込んで、そそくさと身なりを整える翔太の背中に「悪い!」と浴びせる。

『さすがにやりすぎた。……あんな、気持ち悪かったよな』

翔太は無言のままベッドから降りると自分の荷物を持って「また明日ね」と、それだけを口にした。振り返ることなく玄関に向かった恋人を俺は黙って見送ることしかできなかった。
我ながら紙切れみたいな葛藤だったと思う。翔太を気持ちよくさせたい思いがあったならまだしも、あれは俺の欲を満たすためだけの、私欲のための行為だった。そのおかげで……なんて翔太には言えないが、身体の調子はすこぶる良い。心のほうは最悪だが。

「はあぁぁあ……」

もう何度目かわからないため息をつく。隣で北斗が笑ったが無視を決め込んだ。また明日という言葉にすっかり安心していた己の単純さに軽く引く。事務所に着いたとき、翔太は俺から思いきり顔を逸らしてプロデューサーの元に駆けて行った。
嫌われていたら元も子もねえよなあと紙コップを手にソファから立ち上がる。投げ出していたスマートフォンが狙ったように震え始めて、慌てて手を伸ばした。

「翔太?」

楽しそうに目を細めた北斗に着信画面を見せつける。

「親父だよ」


***


久しぶりに翔太を家へ誘った。
結局、あの態度は幻滅されたわけでも嫌われたわけでもなかったらしい。俺の前でどういう反応をすればいいのかわからなかっただけだと翔太から打ち明けられて、北斗が生温かく見守っていた俺たちの『喧嘩』はその日のうちに終息した。
信じられないとか何も準備できてなかったのにとか、そういう小言をむくれた顔でぶつけてきた翔太は可愛かった。お詫びにとびっきり美味しいカレー作ってよね! と言われて頷いたのは良いものの、俺たちは山のように舞い込んだ仕事に追われていて落ち着く暇もなかった。

「まだ取れるかわかんないって言ってた映画、冬馬君で決まったんだって? おめでと」
「おう。でも翔太だってこの前撮ったCMがそろそろ流れる頃だろ。あのスポーツ飲料の」
「まあねー。姉さんたちがいつなのまだなのって毎日はしゃいでるよ」
「写真集の売れ行きも好調だってプロデューサーが喜んでたし、休み返上で働いた甲斐があったな」

ぱくぱくとカレーを掬ったスプーンを口に運びながら他愛のない会話をする。
話したいことは他にもあった。スパイスの比率を変えたとか、鶏肉を寝かせる時間を伸ばしてみたとか、隠し味にマンゴーヨーグルトを使ってみたが大して変わりなかったなとか。そんなのは翔太に一言「美味しい」と言われてどうでも良くなってしまった。
――美味しい。
それは俺が翔太に感じている情でもある。

「……おまえにだけは話しておくけど、」

きっかけはあの日、翔太にねだられて仕掛けたキス。母さんが警告してきたにもかかわらずやめられなかったディープキス。
俺の身体は翔太の体液を自分にとって極上の食事だと判断したらしい。人が普通に生活して腹を減らすのと同じように、俺も時間が経てば翔太を求めて飢えてしまうようになった。
喉が渇いたらキスをして、腹が減ったらキスをして。そんな生活を続けられるわけがない。俺と同じだった母さんは、親父と一生添い遂げることが決まったとき、親父の首すじに歯を立てたらしい。
解決策のひとつがこれだ。血をもらえばキスをする必要はなくなる。だがこれは契約みたいなもので、血を吸われた人間は他の誰も好きになれなくなるのだという。……そして、もうひとつの解決策は体液を摂取する対象を増やすということ。
電話口で親父は怒りも呆れもしなかった。ただただ俺の身を案じていた。それから俺が『付き合ってるやつ』と濁した翔太のことも。

「……冬馬君が僕とちゅーしたいだけじゃないって知ってたけど、それじゃあまるでおとぎ話に出てくる吸血鬼みたいだね」
「おまえな……もっと驚くとか……」
「驚くも何もさあ、それが本当の話だとして、僕が冬馬君に血をあげたら済む話じゃないの?」

カチャカチャとスプーンが陶器の皿に当たる音が大きくなる。それに、と翔太が付け加えた。

「僕は僕以外の人に冬馬君を譲るつもりはないよ」
「……カレー。まだ食うだろ?」

空になった皿を攫いキッチンへと向かう。翔太が「冬馬君!」と俺を呼んだが何と返せばいいのかわからなかった。
翔太以外のやつと関係を持つ――これは初めから選択肢にない。俺には初めから翔太の血をもらうか現状維持の二択しかなく、すでに現状維持できるかどうか怪しいほどの頻度で体液が欲しくなっている。
仕事に支障を出すのは嫌だ。けど、翔太の一生を俺で縛りつけるつもりもない。そこまでの責任が持てない。……違う。俺を選ばせて、でもやっぱり違ったと否定されるのが怖いんだ。

「冬馬君。僕、本当に冬馬君が好きだし、いいって思ってるんだからね」
「……わかったから、先に食っちまおうぜ」

キッチンに顔を出した翔太を諌めてルゥを注ぐ。自信作のカレーと翔太を見比べても翔太にキスしたいという気持ちのほうが勝る。恋人に性欲より食欲を刺激されるだなんて、心底ふざけた話だと思った。

翔太の血はきっと美味しい。欲しい。俺のものにしたい。ぐちゃぐちゃの思考のまま眠る翔太の首すじに舌を這わせた、そんなときだった。何かにぐっと後頭部を押し付けられて目を見開く。俺の頭を抱きかかえていたのは翔太の腕だった。

「しょうっ……!」
「いいよって、何回言わせれば気が済むの?」

いつから起きていたのか、俺の耳元ではっきりと囁かれる。それが聞いたこともない艶のある声で、身体中に震えが走った。飛び退くように後退してベッドの上に尻餅をつく。俺はゆらりと上体を起こした翔太から目を離せずにいた。

「っだから、そんなつもりねえっつってんだろ!」

嘘だ。今すぐ翔太に抱きついて、縋って。一生俺を好きでいろと言ってみたい。伸びた牙でやわい肉を裂き、あふれる血を啜ってみたい。そうすることを許されたい。翔太にだけじゃなく、この世のすべての人間に。

「おまえ、恋がしたいって言ってたよな……? っ、もう、無理だろ、こんなの恋じゃない……」

好きだと思って、キスがしたくて唇を寄せるような気持ちはとっくの昔に無くなった。
……おまえは知らないだろ。嫌われたくないと願いながら、翔太なら受け入れてくれると甘ったれた考えを持って手を伸ばす、自分勝手な俺のことを。

「……じゃあ、なんで話したの。何も言われなかったら僕はずっと知らないふりができてたよ。冬馬君が望むような僕でいてあげられたよ」

翔太の言う通りだ。最初から何も言わずにいればよかったのに、翔太なら俺に血を分け与えてくれるはずだと心のどこかで確信していた。そういう言葉を、展開を期待して、わざと翔太の不安を煽るようなことも言った。
月明かりが差し込むだけの薄暗い部屋の中、布切れ音が聞こえる。ぎょっとして顔を上げれば、そこには上半身裸の翔太が俺をまっすぐ見つめて佇んでいた。

「なっ、おまっ、なにして、」
「僕が他の誰かを好きになるんじゃないかって思って遠慮してる? でもそれってすごく失礼じゃない?」

翔太の腕が俺の背中に回り、あやすように撫でられた。
冷えた指先が俺の頭を撫でて髪を掻き分ける。そのまま、優しく首すじへと導かれた。

「心も、身体だって、ぜんぶ冬馬君にあげる。冬馬君じゃなきゃこんなこと絶対言わない。僕を信じて」

緊張しているのか固くぎこちない身体も、整わない呼吸も、明らかに速い鼓動も愛おしい。こんな俺を好きだと言ってくれる。俺の、俺だけの翔太。

「……頼む。嫌いにならないでくれ」

情けない懇願を口にして、一思いに歯を立てた。




羽化する肉体/200927