SCENE1
困ってほしいと言われたことがある。
「すぐ赤くなるところも、眉毛がへにゃへにゃになっちゃうところもかわいくて好きだったよ。僕のせいでこんなふうになってるんだなあって思ったらさ――」
頬を緩ませて笑う翔太はそこで一呼吸おき、そのまま口を閉じてしまった。
「冬馬くんおはよー……」
まだ眠気を含んだ声色で名前を呼ばれて、声がしたほうに視線だけを向ける。
「もう昼だけどな。腹減ったから起きてきたんだろ? おまえの分も焼いてるぜ」
「うん。いい匂いする」
そんな言葉と共に背中から抱きつかれて、冬馬はぎくりと全身を強張らせた。脇から伸びてきた両手が冬馬の腹を撫で、指先は遊ぶようにエプロンの紐に沿って水平に移動する。
冬馬は翔太の指を目で追っていたが、フライパンに落とした油がパチリと跳ねた音を聞いて自分が何をしていたのか思い出し、慌ててコンロの電源を切った。
「おい翔太っ、危ねえだろ!」
すぐに引き剥がそうともがいたが、しがみついている腕にグッと力を込められてしまい逃げられなくなってしまう。
バットや計量カップ、フライ返しで散らかったままの作業台に手のひらを着く。冬馬はきれいなきつね色に焼けているフレンチトーストを横目に大きなため息をついた。
「……おまえが寝てる間にジャムも作ったんだ。味見してみるか?」
「へー。冬馬君そんなのも作れるんだ。すごーい」
「あんなもん煮ればできる……っ、翔太、」
拘束は緩んだが、翔太が冬馬から離れることはなかった。それどころか身体に絡んだ両腕はどんどん下がっていき、ついに股間の上を滑る。
ジーンズの分厚い前立てのおかげで指の感触はあまり伝わってこないが、そこばかりを指の背で執拗に撫でられて、冬馬は熱い吐息を噛み殺した。
「……やりてーの?」
まさかと思い問いかけてみれば、翔太の唇が耳に触れる。
「だめ?」
「や、だって昨日もあんなに……」
しただろ、と。冬馬はその言葉を発することなく自信なさげに眉を中心に寄せた。
そうだけど、なんて。頷かれてしまったらどういう反応をすれば良いのだろう。満足してない、物足りないだなんて言われてしまったら。困惑を通り越してショックかもしれない。
悶々とした気持ちを抱え、前かがみの体勢のまま押し黙っていると、首すじに口付けていた翔太が楽しそうに囁いた。
「僕、冬馬君の困ってる顔が好きだなあ」
だから僕の言うことやることぜんぶに困ってほしい。そう無邪気に続いた言葉に冬馬は翔太が好きだと言った顔を晒して「身が保たねえよ」と、それだけを返した。
SCENE2
狭い湯船の中で向かい合う形になっている冬馬と翔太は互いのつま先をつつき合いながら冷えた身体を温めていた。
「まずは北斗君を助けるでしょー」
浴槽のふちの上、人差し指と中指を人間に見立てて歩かせながら翔太が淡々と語る。
「で、北斗君を助けたあとに冬馬君も助ける」
「ばーか。こういうのはどっちか一人だけで、二人ともは助けられねえもんなんだよ」
あーあ、俺死んだ。
心にもないことを呟いて、水滴の重さに耐えきれず落ちてきた前髪を再び掻き上げる。
そうなの? なんて、目を丸くしている翔太に「そうだろ」と、とどめを刺せば歩いていた指先がドボンと音を立てて湯船の中へと落ちていった。
冬馬の発言に不貞腐れてしまったのか、翔太は唇をつんと突き出すと、折り曲げている膝を抱えて小さくなってしまう。
――崖から落ちそうになっている二人のうち、どちらを助けるか。
そんな、ありがちな話を持ち出したのは冬馬のほうだった。一人しか助けられないと聞いたからなのか、すっかり黙り込んでしまった翔太にさすがの冬馬も罪悪感が湧いてしまう。
「翔太、こっち来いよ」
自身の膝と共に湯を叩いて両手を広げ、素直に近寄ってきた翔太の背中を抱き留める。後ろ髪が貼り付くうなじから、なだらかな背中まで。うっすらと火照る身体を目で舐めながらふうと息をつく。これだけでのぼせそうだと思った。
「……さっきの話だけど、」
人差し指と中指を、今度は冬馬の太ももの上で遊ばせはじめた翔太が口を開く。
「北斗君を助けても冬馬君が落ちちゃうんなら、僕も一緒に落ちてあげる」
「……は、」
「ね、悪くないでしょ?」
こちらを覗き込みながら目を輝かせる翔太に冬馬は何も言わなかった。言えるわけがなかった。
SCENE3
空は雲ひとつない晴天。スタッフによって事前に整備された砂浜は一面の白。けれど、寄せては返す波のせいですっかり濃い色に染まった砂の上を冬馬は一人歩いていた。
バタバタとはためく潮風がキャップを攫ってしまわないように押さえつけながら歩いていると、波に押されている魔法の杖にも似た流木を見つけてしまい、たまらず拾いに走った。
足首を濡らした海水の冷たさにじんわり身体を震わせて、黙々と砂の山を作っている翔太の元へと戻る。
「見ろよ翔太! すげーいいもん拾った!」
「……冬馬君ってほんとそういうの好きだよねー」
波で削られて歪な線を描いている流木を呆れ顔の翔太に手渡す。
これじゃあまるで飼い主が投げたボールを取りに行った犬だと、気づいた冬馬が声を荒げたときには遅く、先に響いた大声にかき消されてしまった。
「北斗くーん! プロデューサーさーんっ!」
翔太は海の家を拠点にしているアルコール缶を持った大人たちに向かって握りしめた流木を大きく振りはじめた。
見て見てー! とジャンプまでして年相応にはしゃいでいる姿に冬馬はおまえだって好きなんじゃねえかと毒気を抜かれてしまう。手を振り返す北斗とプロデューサーのそばで撮影隊が笑っていた。
「プロデューサーさん、顔赤かったね」
「ああ。北斗が居るから大丈夫だっつってたのにな」
「お酒飲みながら仕事の話するんでしょ? 大人って変なのー」
作りかけの砂の山はそのままに、二人は波打ち際にしゃがみ込むと波の行方を目で追っていた。あの輪の中に混ざることができない『子ども』は冬馬と翔太の二人だけだった。
「あっ」
翔太は流木で濡れた砂を掘り返していたが、何かを見つけたらしく、勢いよく立ち上がり波へと近づいていった。
「なんて言うんだっけこれ、海に落ちてるガラスのかけら」
「……シーグラス?」
「それそれ。あ、見てよ冬馬君、あっちにも落ちてる!」
「落ちてるって……んなもん拾ってどうするんだよ」
パシャパシャと足元を濡らしながら走り出した翔太に「よそ見してると転けるぞ」なんて言葉をかけ、冬馬は腰を上げた。やれやれと波に消えていった足跡を追う。
冬馬が近くに来るのを待っていたのか、翔太は子どもらしい笑みを浮かべた。これはね、と拾い上げたシーグラスを太陽に透かして続ける。
「姉さんたちへのお土産にするんだー」
波の寄せる音が耳をつんざく。
「……冬馬君、今安心したでしょ」
それとも別のこと考えてた?
どちらとも否定できずに佇んでいると、翔太はこちらを見据えてはっきりと口にした。
「別れよっか、僕たち」
BREAK
この関係を終わらせるのは俺の役目だと思っていた。勘違いだ、妄想だ、気持ち悪い。考えられるだけ酷い言葉を叩きつけて、翔太のことをうんと傷つけてやろう、突き放してやろう。そう思っていたのに。先に別れを告げられたのは俺のほうだった。けれど俺は、自分のことばかり考えて生きている俺は、別れようという翔太の提案に頷けなかった。醜悪な心の内を翔太に知られていたことのほうが恐ろしかった。
いつだったか、好きだと思ったらそれが恋なんだと北斗が教えてくれたことがある。好きだという感情がどんどん加速して、止まらなくなって、その人のことしか考えられなくなる。それが恋なのだと。……なら、俺は恋をしていない。俺が翔太に抱いている感情は、ドラマや映画のヒーローがヒロインに宣誓するような、胸を張って「好きだ」と言えるものじゃなかった。
愛されるために生まれてきたような、誰からも愛されている存在に何故か愛されてしまった、そんな俺。相手なんて他にもっと居るだろ。どうして俺なんかに執着するんだと、何度も考えたことがある。翔太のことが羨ましくて疎ましかった。見下して、優越感にも浸っていた。だから罰が当たったんだ。
翔太は今日も部屋に来ない。
俺はまた、独りになった。
REBIRTH1
冬馬君の様子が変だと最初に気づいたのは北斗君だった。
翔太、冬馬と何かあった? なんて、内緒話をするみたいに耳打ちをされて。僕も、冬馬君だって仕事中はいつも通りに振る舞ってたから、それでも騙せない北斗君はやっぱり僕たちのことをよく見てくれてるんだなあって感心した。
「冬馬君って真面目だよね。面白いくらい」
フライパンがジュウジュウ弾ける音と一緒にチーズとベーコンの匂いが部屋いっぱいに広がって、空っぽになったお腹がぐうぐう鳴る。そんなお腹をよしよしとあやすように撫でながら、僕は壁に寄りかかってキッチンに立つ北斗君を見つめていた。見慣れた光景なのに、不思議と抱きつきに行こうとは思わない。
「……俺は、翔太は冬馬のそういうところが気に入ってたんだと思ってたけど?」
そう言って、北斗君は茹で上がったパスタを手際良くフライパンの中に落とした。目と目が合えばウインクが飛んでくる。
「もうできるからテーブルで待ってて」
「うん」
――振ったんだ。冬馬君のこと。返事はまだもらってない。
冬馬君と何かあったのか聞かれて、僕は本当のことを答えた。北斗君は目を丸くしたりまばたきを何度もしたりしてたけど、すぐに僕をご飯に誘ってくれた。これから俺に時間くれる? なんて、普段通りの北斗君らしい誘い方が心地よかった。
出来立てのカルボナーラをフォークにくるくると巻きつけて頬張る。北斗君はこれしか作れないなんて言うけど、僕は冬馬君のカレーと同じくらい、このカルボナーラが好きだ。
「冬馬君って単純じゃないんだよ、ぜんぜん。几帳面だし繊細だし……家族のこととか、特に」
冬馬君のことを好きだと思う理由はいっぱいあるけど、僕が冬馬君に惹かれた一番の理由は、寂しそうに見えたからだ。
冬馬君が「ただいま」も「おはよう」も言わないことを僕は知ってる。一人で居たからそうなっちゃった? 一人で生きることに慣れちゃった? そんな冬馬君が寂しくて悲しくて、愛おしかった。そばに居てあげたいと思った。
僕の身勝手な想いを冬馬君は薄々感じてたんだと思う。おまえには家族が居るだろ、みたいな、諦めてるのか責めてるのかわからない壁を冬馬君はときどき作る。なのに僕が、「僕には冬馬君だけだよ」って言うと困った顔をするんだ。はにかんで、照れくさそうに。
「……僕、わからなくなっちゃったんだ。冬馬君のそばに居てもいいのかなって。冬馬君が僕のことをどう思ってるのかとか、僕と一緒に居たいのかとか……そういうことを、聞くのが怖くて」
突き放されるのが怖かったから僕が終わらせた。そばに居たいなんて思っておきながら、最悪だ。僕は、冬馬君に何をあげられたんだろう。一人じゃないよって、僕が居るよって、僕だけが望んだって意味はないのに。
「……俺からすると翔太も十分真面目だな。二人に必要なのは離れることじゃなくてぶつかりあうことなんじゃない? 喧嘩したっていいんだ。泣きたくなったら迷わず俺のところにおいで。それに、冬馬の気持ちは冬馬にしかわからない、だろ? ……って、ごめん。ありきたりなことしか言ってないな、俺」
「……ううん。そうだよね、冬馬君とも話さなくちゃだよね。喋ったらすっきりした」
真正面から向き合ったら、冬馬君は冬馬君自身のことを話してくれるかな。あれがむかついたとか、これが嬉しかったとか、冬馬君が僕に思ったこと、ぜんぶ。ぜんぶ、教えてほしい。
「――いってらっしゃい。翔太」
「ありがとう北斗君。カルボナーラ、美味しかったよ」
ひらひらと手を振る北斗君に見送られて玄関の扉を開く。
目指す場所はただひとつ。待っていて、僕の好きな人。
REBIRTH2
まだ夕日が沈みきっていない空に浮かぶ月を見上げながら、震える指先で通話ボタンをタップした。ワンコール、ツーコール。スリーコールから先は数えるのをやめた。
僕は祈るように目を閉じて、その無機質な呼び出し音を、まるで審判がくだされる罪人みたいに聴いていた。
「……翔太? おまえ、こんな時間に一人で何やってんだ?」
「えっ?」
鳴り止まないスマートフォンを耳に当てたまま、声がしたほうを振り向くと、そこには息を切らした冬馬君が汗を拭いながら立っていた。
見慣れた黒のジャージ姿。走ってたんだなってひと目でわかる。だから電話しても繋がらなかったんだとか、逢いたいってお祈りしたから神様が逢わせてくれたのかなとか、そんな、支離滅裂なことを考えた。
「なんっ……おい翔太!」
「冬馬君と話さなきゃって思って、僕、ぼく……っ、だからおねがい、逃げないでっ」
目の前の身体がふらりと揺れたのを見て、僕は無我夢中で冬馬君の胸に飛び込んだ。痛いくらいしがみついて冬馬君を繋ぎ止める。離せって言われたけど、絶対に離してあげないって言い返した。
「……スマホ。落としたぞ」
「冬馬くんに逢えたから、いい」
「いいわけねえだろ。……つーか何。おまえ、俺に逢いに来たわけ?」
言葉は刺々しいのに冬馬君の声はずっと優しい。その声を聞いただけで目の奥から涙がじわじわあふれてくる。鼻水も止まらなくて、口を開けたら嗚咽が漏れちゃいそうで、僕は黙って頷くことしかできなかった。
「しょうがねえなあ」
泣くなよって、子どもをあやすみたいに頭を撫でてくる手のひらが気持ちいい。大好きな冬馬君の腕の中でずっとこうしていたい。だけど言わなくちゃ。ぐちゃぐちゃな顔を拭いながら冬馬君を見上げると、空はすっかり薄暗くなってた。
「わ、別れようなんて言ってごめん。僕、自分のことばっかりで、冬馬くんをいっぱい、いっぱい傷つけたのに……っ、まだ一緒に居たいって思ってて、ごめんね」
「……おまえが俺に謝ることなんてひとつもねえよ」
冬馬君はきっぱり言い切ったけど、僕はそう思わない。冬馬君の世界に土足で踏み込んだ自覚はちゃんとある。
「翔太、俺もおまえに話があるんだ。聞いてくれるか?」
冬馬君は僕が落としたスマートフォンを拾い上げると、立ち尽くす僕に向かって差し出してきた。わかったって返事をしながら受け取って、ぐしぐしと目をこする。腕を降ろしたとき、ふわっと香ったのは冬馬君の匂いじゃなくて――。
「うう、汗くさい……」
「悪かったな! ひっついてきたおまえの自業自得だろ! ――ったく、」
ほら、と腕が伸びてきて、僕はその手を握り返した。ぐっと引っ張られて足がもつれる。お母さんみたいって笑ったら、手の掛かる自覚があるならしゃんとしろって怒られた。
飯は食ったのか? 洗濯してやるから今日はこのまま泊まって行けよ。そんなやりとりも懐かしくて、僕は、冬馬君が幸せならなんでもいいやって心から思えたんだ。
REBIRTH3
ドキドキ高鳴ってる胸に手を当ててふうと短い息を吐く。落ち着きたくて隣に立つ恋人の顔を見つめれば「緊張しすぎ」と笑われた。そうかな、そうかも。ほっぺたを揉み込んで固まった表情筋をほぐしていると、せっかちな彼が先にインターホンを押した。
『……はい、どちらさまでしょうか?』
「はじめまして。今日、隣に越してきた天ヶ瀬です。ご挨拶に伺いました」
『ああ! 少々お待ちください』
プツンと切れた通話を聞き届けて、知らんぷりを決め込んでいる彼の肩を揺さぶる。
「なんで冬馬君が挨拶してるの!? 僕がするって言ったじゃん!」
「いや、どうでもいいだろこんな……」
「すみません。お取り込み中でしたか?」
玄関の向こうから現れた男の人が僕たちを見てきょとんと目を丸くする。僕は慌てて姿勢を正し、甘い声を持つその人に「同居人の御手洗です」と頭を下げた。
「どうも、伊集院です……ふ、っあはは! 二人とも、本当に来たんだなあ!」
茶番に耐えきれなくなったのか、北斗君が大きな笑い声を上げながら僕と冬馬君に腕を回して抱きしめてくる。引っ越しお疲れさま、と労いの言葉が耳に届いて、僕は頷きながら北斗君の肩に手を回した。
僕と冬馬君は北斗君の住んでるマンションに、それも北斗君の隣の部屋で暮らすことになった。もう少し広い部屋に住みたいって引っ越しを考えていた冬馬君にルームシェアを持ちかけたのは僕。
正直、実家を出る理由はなかったんだけど、僕は冬馬君と暮らせて嬉しいし、二人で折半したら選択肢も広がるでしょって、渋る冬馬君を説得した。それで見つけたのがここ。
「部屋は片付いたのか?」
「最低限のもんだけな。まだダンボール積んでる」
「そっか。じゃあ落ち着くまで新居のお披露目はお預けだな」
「お披露目って……反転してるだけでおまえの部屋と間取りは一緒だろ」
呆れる冬馬君に北斗君はそうだけど、と笑って「招かれることに意味があるんだよ」と続けた。
一人暮らしには十分広い2LDK。キッチンは冬馬君好みに充実していて、僕の部屋と冬馬君の部屋もある。もちろんベッドは別々だけど、サイズは大きめのものを用意した。しばらくは冬馬君のところで寝るつもり。
じゃあまた明日、と手を振る北斗君へ冬馬君が思い出したように付け加える。
「北斗おまえ、夜中に聞き耳立てんなよ」
「ねえ何言ってんの?」
「安心して冬馬。このマンションは全室防音だから」
「北斗君まで!」
気持ちいいほど素直な笑い声に見送られながら、先を歩く冬馬君の肩をばしばし叩く。うるせえなあとぼやく冬馬君に唇を塞がれたのは、僕たち二人の家の、玄関に入ってすぐのことだった。
「――翔太。おまえは俺と一緒に居たいって言ってくれたけど、俺はこのまま別れたほうがいいと思ってる」
自分から別れを切り出した手前、返事ももらってないのに冬馬君の部屋に行くのは違う気がして近づきもしなかった。ほんの数日の話。なのに僕は今、冬馬君のベッドに寝転んでる。ゴウンゴウン回る洗濯機の音が少しだけうるさいなと思った。
「どうして?」
起き上がって、じっと天井を見つめる冬馬君の視界に入る。冬馬君はほっぺたを撫でてくれた。
「……好きだって気持ちだけ持てればよかったのかもな。俺は、当たり前に家族が居て、愛されてるおまえのことを羨ましいって思ってるから」
おまえと居ると本当に自分が独りなんだって思い知らされる。
冬馬君はキュッと眉間にしわを寄せて苦しそうに吐き出した。……僕は、どうして冬馬君が僕と一緒に居てくれたのかずっと不思議だったけど、こうやって言葉にされて、初めて冬馬君の心を見た気がした。
「でも、俺がこんなだから、おまえが俺のことを好きになってくれたのかもって思ったりもして……勝手だろ。幻滅したか?」
「してない」
「即答かよ。おまえは本当、俺に甘いよな」
甘いのは冬馬君のほうだ。そこに打算があったとして、僕のことを突き放さずにいてくれた冬馬君は、甘くて優しい。
「……勝手なのは僕も同じだよ。何をしたら冬馬君に喜ばれるかなとか、そういうことばっかり考えてたもん……」
好きだよって言ったのも、キスをしたのも、冬馬君に愛みたいなものを与えられてるんじゃないかって思ってたからだ。僕と一緒に居れば楽しいでしょ? 寂しくなんてないでしょ? なんて。自分に酔ってたのかもしれない。
「たぶんだけど、僕は別れちゃっても冬馬君のことを好きでいつづけるよ。冬馬君のことを見つけちゃったから、冬馬君以外の人はもう見つけられない。……ねえ、付き合ってたら好き以外の感情を持っちゃだめなの?」
ほっぺたに触れたままの冬馬君の手を取って、答えを聞く前に唇を寄せる。手のひらにキスをした。
「僕は冬馬君の好きも羨ましいも、愛してるも憎らしいもぜんぶ欲しいよ」
恋って難しいよね。好きが加速して、止まらなくなって、その人のことばっかり考えちゃう。好きだけじゃ抑えられなくて、それ以外の感情も欲しくなる。底知らずの欲張りになる。
ちらりと見つめた冬馬君と目が合って「……ばーか」と笑われた。それが答えだった。
冬馬君と、冬馬君の部屋のベッドの中で聞き耳を立てられたら困るようなことをした。見慣れない天井から逃げるように素足を絡ませる。なんだよって迷惑そうな態度にかちんときた。
「……冬馬君さあ、僕が何してもぜんぜん困ってくれなくなったよね」
「はあ? 何年一緒に居ると思ってんだ。つーかおまえ、俺が困ってるとこ見て楽しんでただろ」
そりゃあもう。僕は冬馬君の顔を覗き込んで囁いた。
「すぐ赤くなるところも、眉毛がへにゃへにゃになっちゃうところもかわいくて好きだったよ。僕のせいでこんなふうになってるんだなあって思ったらさ――」
嬉しかった? 安心した?
あれはなんていう感情だろう。なんて伝えればいいんだろう。
しっくりくる言葉が思いつかなくて僕は口を閉じた。訝しむ冬馬君から距離を取って誤魔化すように布団を被る。
「……明日、起きたら一番におはようって言うね」
「……おう」
「朝ご飯はフレンチトーストがいいなあ。食パン買ってたよね? あーでもメープルシロップがないか。昔はどうしてたっけ? ジャムで食べたような記憶もあるんだけど」
「わかった。わかったからおまえもう寝ろ」
僕と冬馬君は家族になれないけど、これからは毎日この家で寝て起きて、毎日この家に帰ってくるようになるんだ。それって家族みたいなものだと僕は思うから。
「おやすみなさい。冬馬君」
「……おやすみ、翔太」
ちょっとだけ気恥ずかしそうな冬馬君の態度に満足して、僕は目を閉じた。
今日から見る夢は温かくて、目が醒めたら忘れちゃうような、特別って言うには物足りない。きっとそんな、ありふれたものになるよ。
REBIRTH/200613