※先にこちらをどうぞ
昔むかし、村はずれの古いお城にさみしがりやのヴァンパイアが住んでいました。ヴァンパイアはとても凛々しく美しく、気高き夜の王と呼ばれています。
しかし、人間からはもちろん、仲間からも恐れられていたヴァンパイアには友だちが一人もいません。さみしがりやのヴァンパイアは毎日のように狩りに出て、大人から子どもまで、たくさんの人の血を吸っていました。ヴァンパイアは血を吸った分だけ強くなり、長生きすることができるのです。
ある日、ヴァンパイアを退治するために一人のエクソシストがお城を訪れました。聖水と短剣、それから誰にも負けない心の強さがエクソシストの武器でした。
『はじめまして、ぼくはエクソシストです。あなたを倒せと依頼されてやって来ました』
『ふん。たかが人間にこのおれさまが倒せると思うか』
『やってみなければわかりません』
ヴァンパイアとエクソシストは戦いをはじめました。二人の争いは激しく、お城の窓は割れ、テーブルやイスが飛び交います。あっという間に夜が明けてしまいましたが決着はつきませんでした。
それからというもの、エクソシストは毎日のようにヴァンパイアを退治しにお城へ訪れました。ヴァンパイアは何度追い払っても諦めないエクソシストを不思議に思っていましたが、だんだん二人でいる時間を楽しいと感じはじめていました。
エクソシストも同じ気持ちだったのでしょう。ある日、短剣を捨てたエクソシストはヴァンパイアに利き手を差し出しました。ぼくは二度とあなたを傷つけません。親愛の証に握手をしましょう、と。
こうして、二人は友だちになったのです。
ヴァンパイアは狩りに行くのをやめてお城に引きこもり、エクソシストとたくさんの時間を過ごしました。二人でご飯を作り、本を読み、お昼寝をしました。
ずっとこの城にいてほしいというヴァンパイアのお願いにエクソシストは頷きます。エクソシストはヴァンパイアのさみしさに気づいていたのです。だからこそ、ヴァンパイアと人間の関係を変えたいと思っていました。
『あなたはとても優しいひとだね。ぼくが村人たちを説得してみせるよ』
村に戻ったエクソシストは必死で説得しましたが、村の人々は自分たちを襲う恐ろしいヴァンパイアの姿しか知りません。エクソシストはヴァンパイアと仲良くしていることをひどく責められてしまいました。
今夜退治しなければおまえもろともあの城に火を放つぞと脅されて、エクソシストはやめてくださいと頭を下げました。それでも人々の怒りは収まりません。エクソシストはやむをえず、ヴァンパイアを退治すると約束してしまいました。
『こんなことになってしまってごめんなさい。あなたに神のご加護がありますように』
お城に戻ったエクソシストは、聖水をかけた短剣を眠っているヴァンパイアの胸に突き刺しました。友だちの命を奪ってしまった悔しさでぽろぽろと目から涙がこぼれます。そんなときでした。
『おまえ、おれを騙したな』
カッと開いたヴァンパイアの目が憎悪に染まります。たった一人の、はじめてできた友だちに裏切られ、悲しみでいっぱいのヴァンパイアはエクソシストの言葉に耳を貸すことができません。長く伸びた爪で心臓を一突きし、エクソシストの命を奪ってしまいました。
『許さねえ! 人間なんか大ッきらいだ!』
我を忘れたヴァンパイアは村を襲いはじめます。
許してくれ、助けてくれ、と人々の悲鳴があたりに響きわたりますが、ヴァンパイアは村人を一人残らず狩り尽くしてしまいました。
お城に戻ると冷たくなったエクソシストが待っていました。ヴァンパイアは本当に独りぼっちになってしまったのです。そのことに気づき、静かに涙を流しました。
――絵本『さみしいヴァンパイア』より。
「……このお話に出てくるヴァンパイアがホレイクのパパなの? ホレイクのパパは悪い人なの?」
無垢な瞳が見上げてくる。村人を襲うヴァンパイアの挿絵を指差している少女にホレイクと呼ばれた青年は柔らかな笑みを浮かべて首を横に振った。
「父さんは優しいよ。これはずっと昔に描かれたお話だからね、嘘も混じってるんだ。だからジェシカも、お友達が父さんを怖がったり悪く言っていたら違うんだよって教えてあげて」
「うん、わかった」
「いい子だ」
絵本を閉じたホレイクは少女の額に口付けると、その小さな身体に毛布を掛けた。ちょうど良いタイミングで扉がノックされる。ホレイクが振り向くとそこには少女の母親が佇んでいた。
「おやすみジェシカ。よい夢を」
すでに寝息を漏らしている少女に子どもの寝付きは早いなあと感心しながら、絵本を片手に部屋の出口へ向かう。だが、部屋から出る直前、伸びてきた両腕が背中に回り抱きつかれてしまった。己に身を委ねてくる女性の肩をそっと抱く。花の香りが鼻孔を刺激した。
「いつもありがとうホレイク。ごめんなさいね、すっかり甘えてしまって……あなたの優しさはお父様譲りなのかしら?」
「聞いていたんですか? はは、この歳で父親離れができていないなんて呆れたでしょう? 恥ずかしいな……」
「そんなことないわ。わたしはあなたのそういうところが気に入ってるんだもの。さあ、奥へ行きましょう」
彼女の名前はリリーという。ジェシカの母親で、夫のトーマスとは離婚している。元夫は酒とギャンブルへの依存がひどく、母娘に手を上げることも少なくはなかったらしい。愛想を尽かしたリリーは幼いジェシカを連れて実家があるこの街へ帰って来た。三ヶ月前のことだ。
「週末が弟の命日なんです。明日の夕方には街を出ようと思っていて……家が家なので、こちらにはいつ戻って来られるかわからないんですが……」
「まあ、そうなの。ジェシカもあなたに懐いていたから……寂しくなるわね。そうだ、迷惑じゃなかったらお花を包ませてくれない? あなたの大事な家族へ心を込めるから」
「ありがとう。こんな俺を迎え入れてくれたこと、本当に感謝しています。リリー、あなたとの出逢いは春の嵐みたいでしたね」
ソファの中心でぴたりと寄り添う男女は流れっぱなしの恋愛映画には目もくれず、互いの瞳を見つめ合っていた。
ホレイクとリリーの出逢いはひと月前に遡る。両親が営む花屋に客として訪れたホレイクをリリーが接客したのだ。ホレイクは真っ赤な薔薇の花束を注文し、それをそのままリリーの両腕に抱かせた。
『美しい人を見るとつい花を贈りたくなってしまうんです』
リリーは己の仕立てた花束を見つめたままぽかんと口を開いた。髪は整っておらず、化粧も大雑把で、お世辞にも『美しい』とは言えない格好をしている。なのにホレイクはリリーに笑いかけたのだ。
夫からぞんざいな扱いを受け、娘を育てるために奮闘している。心が休まるときなんてなかった。そんな彼女に向けられた言葉と微笑みは、忘れていた『女』を呼び覚ますには十分だった。
「――あ、ホレイク……っ、」
歯を立てられた首すじに鈍い痛みが走る。牙で裂かれた素肌は徐々に熱を持ち、痛みを痺れに変えていく。頭の奥がくらりとして何も考えられなくなる。吸血鬼の牙や唾液にはそういった作用があるのだという。
……そう。まだ成人して間もないような年頃の青年は、ホレイクは、自分のことを吸血鬼だと自称した。だがホレイクは太陽の下を平然と歩き、十字架もにんにくも効かない。はじめは年下男子の可愛い冗談だと思っていた。実際に、血が欲しいと歯を立てられるまでは。
人ならざる者が人間社会に溶け込んで生活していることはめずらしくないのだとホレイクは教えてくれた。何年も見た目が変わらない人。気づいたら居なくなっている人。生死に関わる価値観が希薄な人。そういった人は人ではない可能性が高いのだと。
「ああ、やっぱりあなたの血は格別に美味だ……!」
唇を鮮血で染めたホレイクがうっとりと囁いた。それは決して内面や容姿にかけられた称賛ではないのに、リリーの気は昂ぶっていく。
「いい、いいから、もっと吸ってよホレイク……っわたし、あなたになら取り殺されたって嬉しいもの、だから、っ」
「こーら。滅多なことは言うものじゃありません」
娘を叱るときと全く同じ台詞でたしなめられて、羞恥がリリーを襲う。本来ならば自分の何倍も長く生きているはずのホレイクは、それでも外見相応の態度で接してくる。
「まだ夜は長いですから。お願い、泣かないで……」
ソファに沈みそうになる身体を支えられながらリリーは目を閉じた。元から手に入れられるはずもなかったのだ。傷心のリリーにとってホレイクは癒やしと愛を与えてくれる、まるで幻のような存在だった。
***
少年が目を覚ますとベッドの上には花束が置かれていた。まだ覚醒しきっていない思考のまま起き上がり、白と紫で彩られた花束に手を伸ばす。少しだけくたびれた花弁が、摘まれてから経過した時間を想像させた。
「何だこれ……誰が……」
「俺だよ父さん」
声がした先に顔を向ければ、サロンチェアに腰掛けた青年が女中から目覚めの紅茶をカップに注がれていた。おはようございます旦那様、と変わらない挨拶に相づちを返して同じ紅茶をもらう。
「……おまえ、いつ帰ってきたんだ?」
「深夜にね。それは向こうでお世話になった人に包んでもらったんだ。口に合うといいけど」
「また女をたぶらかしてきたのか……」
数ヶ月ぶりに見る顔は何ら変わりない。こいつも飽きねえなと思いながら少年は手渡されたカップに口付けて濃い紅茶を啜った。熱い液体が喉を通り、胃の中へと落ちていく感覚は一言で表すならば至福だ。女中が用意した軽食を断れば、じゃあ俺が頂くよと青年が手を挙げる。
長い指先が皿の上に乗ったビスケットをつまみ上げると、少年も花束から一輪だけ抜き取った紫の花をためらいなく口元に運んだ。確かブルーベルという名前だったか。その花弁を舌で掬い、唇で千切り、歯で裂いていく。
「……うん、悪くない」
舌鼓を打ちながら新たな花弁へと唇を寄せる。
人が花を食べているという異様な光景だが、女中は驚きもせず少年と青年に一礼すると寝室をあとにした。
「ホレイク。おまえの土産に外れなしだな」
「父さんにそう言われると俺も鼻が高いよ」
まだ十代の年頃にしか見えない少年を「父さん」と慕う青年は――ホレイクは心底嬉しそうに目を細めた。
ホレイクの養父である少年もまた吸血鬼である。実話を元にして描かれたという絵本『さみしいヴァンパイア』のモデルであり、本当の名前は誰も知らない。伝承通りの恐ろしい吸血鬼だが、今は誰の血も狩ることができない身の上だ。花と酒を嗜み、人間社会を謳歌している。
人間として生まれたホレイク・ナハトは少年に頼み込んで吸血鬼にしてもらったという過去がある。生き別れた弟を探すためには時間が必要だ、人の理から外れることであなたを恨んだり自分の選択に後悔したりしないと何度も説得を重ねてきた。
そうして、渋々だったが血を与えられたホレイクは、人里離れた古城に閉じ籠もっていた吸血鬼の少年を外へと連れ出し、共に世界を見てまわることにしたのだ。
弟のカルセイズ・ナハトと再会したのは彼が晩年の頃。すでにベッドで寝たきりの生活を余儀なくされていた頃のことだった。カルセイズは一代で見事な薔薇園を築き上げ、ワイナリーとしても成功していた。
自身を訪ねて来た若者を兄と呼び、快くナハト家へ迎え入れたカルセイズの最期はとても穏やかだった。息子夫婦と孫娘のエリザベス、それからもう二度と逢うことはできないと諦めていた兄に囲まれて、満ち足りた表情をしていた。
「――で? 今度はどんな言い訳をして女の前から消えてきたんだ?」
「ああ、弟の命日だからって……エリザベスのところにもあとでちゃんと顔を出すよ」
「そうか。なら夜は暇だな? ランズベリー主催のお遊びに誘われてるんだ。おまえも付き合え」
「了解」
呼び名がない吸血鬼のことを人々は『ナハト卿』と呼ぶ。ナハト家の次期当主はカルセイズの息子だったが、彼はその権利をすべて吸血鬼の少年に譲渡していた。
二人が人外の存在であるとは公然の秘密だ。そして、吸血鬼が身内に居るという事実はナハト家にとって大きな意味を持つ。敢えて存在を隠さず表舞台に立たせることで他の家を牽制したいという気持ちがあるのだ。
少年は人間の欲や地位にはこれっぽっちの興味も関心もなかったが、暇つぶしにはなるかもしれないと当主の座を譲り受けた。そろそろひとつの土地に根付いた生活を送りたいと思っていたところでもある。カルセイズが死んで三十年。端役だがお遊戯に手を抜いたことはなかった。
「ランズベリーはバカ息子に頭を抱えていてな。せっかく裏から手引きして良い大学に入学させたのに本人にやる気がないのなら金の無駄だとよく嘆いていた」
「だから俺を連れて行ったんだ? 伯爵、親の仇みたいな目をしてこっちを睨んでたけど」
「出来のいい息子は自慢するに限るだろ?」
女癖は悪いけどな、と付け加えたナハト卿にホレイクは、趣味はいいでしょと唇を尖らせる。ランズベリー邸をあとにした二人はガタンガタンと揺れながら夜道を走る馬車の中で向かい合わせに座っていた。
ハワード・ランズベリー伯爵が息子アイザックへの小言を漏らしながらダーツを持ち、ボードの中心に狙いを定める。ナハト卿はグラスの縁についた酒を舐めながらその指先を眺め、すぐに視線を外した。
――近々、大陸から客船がやって来るらしい。
確かにそう、ギルバート・ターナー子爵が口にしたからだ。ナハト卿はグラスを手にしたままソファから立ち上がりターナー子爵の背中へと回った。
「ターナー子爵。その話は本当か?」
「な、ナハト卿っ……ええ、表向きは豪華客船、実際はチャイニーズマフィアの船です。いよいよ本格的な商売を始めるつもりなのでしょう。現にアーネット子爵夫人が船に併設されるカジノへ招待されたとか……」
「カジノ……? やつらは麻薬売買にしか興味がないと思っていた」
ふむ、とターナー子爵が座るソファの肘掛けに腰を下ろしてグラスの中身を回す。
見れば、ランズベリー伯爵が投げた三本のダーツはすべてブルから外れていた。対戦相手のホレイクが手を抜いたところで決着は見えているだろう。困った顔でこちらに目配せしてくる息子にナハト卿は「偏差で勝て」と、声には出さず唇の動きだけで指示をした。
「その麻薬売買を円滑に行うための資金調達が今回の目的なんでしょうよ。豪華客船にカジノだなんて、金持ち連中を狙ってることは明白だ」
あなたも気をつけてくださいね、と情報屋モルガンズがボトルを傾けてくる。手にしたグラスに注がれる酒の水紋を見つめながらナハト卿は囁いた。
「非日常は甘い蜜だからな。娯楽と刺激に飢えた人間ほど簡単に破滅する。気に留めておこう」
その言葉にターナー子爵と情報屋モルガンズが顔を見合わせて肩を竦めた。おまえは化け物だろう、吸血鬼がカジノ如きで身を滅ぼすようなら我々は苦労しない。そんな表情にも見えて、ナハト卿は唇を緩ませながら酒を煽った。
「ッくそ!」
静まり返った一室にランズベリー伯爵の悪態が響く。三人はダーツに興じていた二人に視線を移した。
「なんだホレイク、おまえが勝ったのか」
白々しい台詞を吐きながらナハト卿がランズベリー伯爵とホレイクの元へと向かう。
「たったの二点差です。運良く的に当たっただけで……まぐれ勝ちに過ぎませんよ」
「だそうだランズベリー伯爵。お詫びに今度うちの新作ワインを届けさせよう。奥方とでも楽しんでくれ」
「あ、ああ……ナハト卿、心遣い感謝する」
「お互い息子には苦労させられるな」
次は俺と一戦どうだ? と、ホレイクにグラスを預けたナハト卿がランズベリー伯爵を見上げる。見た目は少年の吸血鬼にランズベリー伯爵はすっかり気圧されていた。では一戦だけ……とダーツを手に定位置に着く。
ここで気持ちよく勝たせて気持ちよく解散させるつもりなのだろう。意図に気づいたホレイクはやれやれと片目を閉じた。
「……それで? 伯爵と話はできたの?」
窓枠を使って頬杖をつくナハト卿に問いかければ、まあなと満足げな答えが返ってきた。横髪をかけている耳についた飾りが揺れる。
「今度停泊する客船に招待されるよう根回しした。マフィア相手なら遠慮なく遊べるからな。ホレイク、おまえも来いよ」
「女の子と遊んでもいいならね」
「はは、望まなくたって向こうから寄ってくるぞ。俺たちは大事な財布だ、丁重にもてなしてくれるさ」
めずらしく上機嫌な姿にホレイクは目を丸くする。毎日のように薔薇園に赴き薔薇の花弁を食んでいる儚さからは想像できない。元々、途方もない時間を一人きりで過ごしていた吸血鬼だ。ホレイクと出逢っていなければこんなふうに人間と関わることもなかったはずだ。
……楽しいのだろうか。楽しんでいればいいなと思いながらホレイクは目の前に座るナハト卿に微笑みかけた。自分をここまで育ててくれたのは他でもない彼なのに、まるで慈愛のような情を感じているのは彼が少年の姿かたちをしているからだろうか。
「何笑ってるんだよ」
「ううん。明日は俺も薔薇園に行こうかな」
この人に寂しい思いをさせたくない。ホレイクが吸血鬼になりたいと願ったきっかけはそんな感情からだった。隣に立ち、同じ時間を生きたいと思った。気高く美しい夜の覇者。長年側に居るホレイクでさえ彼については知らないことのほうが多い。
***
豪華客船『ノートルダム号』は母国を離れて二百日以上が経つ。
チャイニーズマフィア青幇《チンパン》の幹部第四位である龍荣宝《ロン ションバオ》に課せられた任務は安全に商売ができそうな国を見極め、その土地の主と確かなパイプを持つことだ。
富裕層向けクルーズ会社のオーナーとして暗躍している龍の素顔を知る者は少なく、乗客はおろか搭乗員でさえ、自分たちがマフィアの船に乗り、利用されていることは知らない。金や情報が飛び交うカジノとバーに限定して、紛れるように龍の部下は配置されていた。
「困りますよお客さまぁ。イカサマするならもっとばれないようにやってもらわなくっちゃあ」
「ごっ、ごめんなさい! 俺ァあの勝負、どうしても勝たなきゃならなくて……っ!」
「それはあなたの都合でしょう? 僕たちにも、ゲームを楽しんでいらっしゃる紳士淑女の皆さまにも関係のない話。余所のカジノならとっくに海の藻屑になっちゃってますよ? それを見逃してあげるって言ってるんだからさぁ……ね、誰が御主人様なのか教えて?」
「っひぃ!」
オーナーのみが座ることを許されているオフィスチェアに躊躇いなく腰を下ろした少年は、黒服の二人から取り押さえられている男の顎を革靴の先で持ち上げた。年端もいかない少年の絶対的な態度に情けない悲鳴が上がる。
「悪いようにはしないよ? あなたの御主人様とちょっとお話しするだけ。僕がここでなんて呼ばれてるか知ってるでしょ」
「っ、ざ、『幸運の招き猫《ザオ ツァイ マオ》』……!」
「正解にゃん。おにーさんのイカサマ、見つけたのが僕でよかったねぇ」
五体満足で帰れるよ、と少年はオフィスチェアごとくるりと身体を回転させる。
資金調達の要とされているカジノでディーラーとして働く少年・マオは龍の弟分であり、人々からは『幸運の招き猫』と呼ばれている。マオの指先には勝利の女神が宿る。女神の微笑みを享受できるかどうかは勝負を挑んでみてのお楽しみ――という宣伝文句が売りだ。
ディーラーとしては誠実で不正は断固として許さず、見つけた場合は容赦なく制裁を与える。すべてはカジノの秩序のために。自分自身のために。
「ねーえ。御主人様の名前、教えてほしいなぁ」
子どもらしい甘え声で男にねだるがその目は笑っていなかった。男はマオのバックに誰が居るのか悟っているらしく、可哀想なほど震えている。耐えられなくなったのか、黒服たちの拘束を払い除けるとマオが座るオフィスチェアにしがみついた。
「っ靴でも床でも何でも舐めますから! それだけは勘弁してくださいっ!」
ピカピカに磨かれた革靴に男が舌を這わせようとする――それを拒絶するかのようにマオは足元にある顔面に一発蹴りを入れた。
「ふぐっ!」
「すみませんマオさん! こいつッ……!」
「口を割る気がないなら本当に藻屑になっちゃう? 別に親切でやってるわけじゃないんだから、それでもいいんだよ僕は。……ったく」
黒服に再び捕らえられた男を見下ろしながらオフィスチェアの背もたれに小さな身体を沈める。
どうしよっかなあ、と木製の机を指先で叩いているとノックが響いた。三人目の黒服の登場だ。黒服はマオの元へ駆け寄ると似顔絵が書かれた紙を手渡し、その耳元に仕入れた情報を囁き始めた。
「……ふむふむ。カジノに入る前にバーでお話ししてた人が居たんだって? えーと、フィリップ・サクレ議員。……なるほどねぇ、このおじさん無害そうな顔してるけどやることやってたんだ」
まあいいや、と両手を叩き男の解放を命じる。口にした名前は確かなものだったのか、真っ青な顔をしている男にマオは愛らしく微笑んだ。
「御主人様とは僕がじっくりお話ししてくるからね。おにーさんはカジノで遊んでて。――ああ、次イカサマを見つけたらサメの餌だよ?」
そう、ぴしゃりと言い放ってマオは事務室から飛び出した。狭い通路を抜ければきらびやかな世界が広がる。カジノの喧騒が耳いっぱいに広がり、先程まで感じていた鬱々とした気持ちが晴れやかになっていく。マオはカジノを楽しむ乗客たちに手を振ったり礼をしたりしながら目的の人物が居るバーへと向かった。
いくら稼いで来いと命令したのだろう。イカサマを働いた男は悲しいかな三流プレイヤーだった。この場で雇ったのか雇わされたのか、それはもうどちらでもいい。
「フィリップ・サクレ議員ですか?」
「そうだが……君は……? ああ、招き猫のマオか!」
「はい。あの、サクレ議員にお願いがあって……」
無害の少年を装い、しおらしく俯く。何事かとソファから立ち上がったサクレ議員の胸元にマオは遠慮なく身体を預けた。
「今晩僕を買ってください。決して後悔させませんから」
マオとは《猫》という意味である。
本来の名前は別にあるのだが、名乗ることは許されていない。組織に買われ、飼われている。持ち前の愛嬌と運の良さで幹部第四位の龍に取り入り弟分に収まったのが二年前。上の人間であればあるほど良かったのだが、龍を選んだのは立ち上げていたクルーズ会社が軌道に乗り始めていたからだった。
船に乗ることさえできればいつでも逃げられる。自由になれる。その考えが甘かったと痛感したのはすぐのことだ。龍は乗船させる条件としてマオにカジノディーラーの知識を叩き込んだのだ。おまえを餌にする。そう言われたことを覚えている。ディーラーの仕事とは相性が良かったのか才能があったのか、そうして出来上がったのが『幸運の招き猫』だ。
龍はマオをカジノの名物ディーラーに仕立て上げることで人の目という名の監視をつけた。組織から逃げ出したいマオの思惑を嘲笑うかのように退路を断ち、今も尚、商売道具として手中に収めている。――だがそれも、あと数年の我慢だ。
「七百億。それでおまえの自由を保証してやろう」
ノートルダム号に乗船することが決まった日の夜、龍の執務室に呼ばれたマオはそう持ちかけられた。眼鏡をかけた龍が分厚い帳簿を捲りながら語り始める。
「忠誠心のない人間は組織に必要ないが……だからと言って、さあ向こうへお行きと優しく見送ってやるわけにもいかない。誠意ってやつだよマオ。世話してやった分の対価は返してもらわなくちゃな」
「……その話、本当に信じてもいいの? 兄さん」
七百億。途方もない数字だが、それで組織から抜けられるのなら選択肢はひとつしかない。マオは興奮で震える拳を握りしめながら、期待を隠せない声色で問いかけた。
龍はふうと息を吐き、帳簿を閉じると煙管を手にした。そのまま真っ直ぐにマオを見据えて「期限は俺が死ぬまでだ」と、口にする。
「おまえの人生を賭けた大勝負。どんな結末を迎えるか、楽しみにしている」
――四肢をベッドに投げ出して、自分を押し倒す男を恥じらい気味に見上げる。サクレ議員はこの一晩を二千万で買ってくれた。ただし明日はその五倍の額で勝たせる約束を交わしたのだが。これが一番効率の良い稼ぎ方なのだから仕方がない。
カジノは大金が動く場所だ。勝ち負けは時の運。そして女神の微笑みによって決まる。だが、勝利の女神はいつだってマオに向かって微笑んでいた。誰にも口外したことはないが、マオは『お祈り』さえすれば相手が誰だろうと意図的に勝たすことも負かすこともできるのだ。
ノートルダム号の客層上、カジノに足を運ぶのはゲームを気軽に楽しみたい金持ちが大半だが、中には一攫千金を狙って勝負に挑む者も居る。マオはそういった思惑を持つ客に目をつけて自身を売り込んでいた。
そして、ありがたいことに世の中には少年愛を心のうちに秘めている人間も少なくはない。駆け引きも取り引きも必要とせずに買ってくれるような物好きも居る。それが肉欲でも憐れみでも、男でも女でも利用しない手はなかった。
マオは素肌の上からシーツを羽織ると客室に備え付けられたデッキへ足を運んだ。ひやりとした夜の空気が気持ちよくて目を閉じる。
お金が欲しい。早く自由になりたい。
誰か、ここから攫ってくれるような人が現れたらいいのにと、途方もないことを願った。
***
その二人組は人ではないらしいとは事前に龍から聞かされていた。一見、兄弟のようにも見える二人だが、実際は親子だというのだから驚きだ。
人ではないものは国に居た頃に一度だけ見たことがある。あれは動く死体で、確かキョンシーと呼ばれるものだった。肌は汚くて開きっぱなしの唇からはよだれを垂らし、うごうごと喚くばかりで人の言葉は喋れない。着せられた深衣だけが輝いていて不気味な生き物だった。
あれと比べるなんて失礼にもほどがあるけど、とマオはラウンジでウェルカムドリンクを煽る少年を盗み見た。血が通った肌の色、身体の線に合わせて仕立てられたことがわかる装い。憂いを帯びた目つきとどこか気品漂う佇まいが外見年齢をあやふやにさせているが、美しい人だと思う。目が離せない。不思議な存在感があった。
ふいに背中を叩かれる。隣に居た龍だった。マオは慌てて商談相手の一人であるランズベリー伯爵に頭を下げた。
「ご紹介が遅れました、私の弟です。ディーラーを任せておりますので、伯爵もお暇があればぜひ」
「マオと申します。停泊中は心ゆくまで当船『ノートルダム号』のおもてなしをお楽しみください」
停泊は五日の予定だ。その間、龍は数名の部下と共に商談に奔放され船には戻らない。外には見たこともない街並みが広がっているのに、マオは一度も下船したことがなかった。これも龍の策略なのだろう。羨むことはとっくの昔にやめた。招待客の中から自身を買ってくれそうな人間を見つけ出すほうが確実で建設的だ。
「カジノか……ではこちらからも紹介しておこう。おい、ナハト卿らをこちらへ」
ランズベリー伯爵に命令された側近が頷いて離れて行く。顔を上げたマオはじっと目の前の男を頭からつま先まで観察した。金も地位もあるのだろうが、それ以上に頭が堅そうだ。こういうタイプは一夜のお遊びには向かない。
「待たせたな、ランズベリー伯爵」
「ああ。……龍オーナー、彼らがその、いわゆるヴァンパイアというやつだ。信じられないかもしれないが……」
「伯爵の言葉は信じますよ。……お逢いできて光栄です」
「こちらこそ。お招きいただき感謝する」
側近に連れられてやってきたのは吸血鬼だと教えられていた二人組だった。少年がナハト卿、青年がホレイクというらしい。近くで見れば見るほど人形のようだと、マオは龍と握手を交わすナハト卿とその数歩後ろに立つホレイクを見つめていた。
「……ナハト卿はカジノがお目当てだとか。うちのマオは『幸運の招き猫』と呼ばれております。運試しにはもってこいかと」
龍の言葉を聞いてナハト卿の視線がマオに向く。
――目が合った。紅い、きれいな瞳と。
「シューティ?」
マオを見て驚いたように目を丸くしたナハト卿がそう口にする。馴染みのない言葉にそれが人の名前だと気づくまで一瞬、間が空いた。ばつが悪そうに口元を抑えたナハト卿が続ける。
「……悪い、人違いだ。忘れてくれ」
「はい、お気になさらず。よければこのままカジノまでご案内いたしましょうか?」
にこやかな笑みを浮かべると頷いたのはホレイクだった。
「じゃあお願いします。俺はバーまでで結構ですから」
「かしこまりました」
……ねえ、シューティって誰? 誰だっていいだろ。
後ろでこそこそと話している親子に仲が良いんだなあと感心しながら先を歩く。……本当に、誰と間違えたんだろう。誰を思い出したんだろう。吸血鬼の少年に対する興味が尽きない。マオは高鳴る胸を落ち着かせようと深く息を吐いた。
あまりにも似ていたから驚いた。だから、きっとあれもそうなのだろう。過去に思いを馳せながら件のディーラーを盗み見る。
シューティ・ダン。それは名探偵ジャステル・アーロンの助手をしていた少年の名前だ。利発さには少々欠けていたが、アーロンの役に立とうと懸命で前向きで、ころころと変わる表情が犬のようだった。
ホレイクと出逢うよりも前のこと。まだヴァンパイアとしか呼び名がなかった時代の話。ヴァンパイアは一人の少年を殺した。その首すじに牙を立て、血を一滴足りとも残さず吸い尽くして。
貫かれた心臓が痛む。飾りと化していた牙が疼く。また同じ轍を踏むのか。――否、今度こそ失敗しない。
「赤の二十七。おめでとうございます」
淡々とゲームを進行するディーラーからチップを受け取り、新たな数字の上にチップを振り分けていく。確率の世界で勝利ばかりを得ているのに、高揚に欠けているのは昔のことを思い出したからだろうか。
「……楽しくありませんか?」
ディーラーが交代し、ここまで案内してくれた少年が目の前に立つ。マオと名乗っていた少年は愛想良く微笑むとチップを握りしめていたナハト卿の右手をするりと撫でた。猫のような瞳。いつの間に人払いをしたのかテーブルの周りには誰も居なかった。
「……じゃあ、うんと楽しくなるようなゲームをしよっか。ルールは簡単だよ? ふたつのダイスを転がすだけ」
これが素顔なのだろう。子どものように砕けた口調で話しかけられても悪い気はしない。
マオは胸元のポケットから赤と青のダイスを三本指で持ち上げ、ナハト卿の手のひらを開かせると飴玉のようにちょこんと乗せた。
「……クラップスか?」
ダイスを手のひらの上で転がしながら心当たりのあるゲームを口にしたが、そうじゃないよと首を横に振られてしまう。
「出た目の数を足してね、奇数だったらキス。偶数だったら何もなし。ゾロ目だったらそうだなあ……」
僕の部屋に来て? いいことしよう。
そう、夜を知る女のように囁いたマオにナハト卿はうろたえることなく眉をひそめた。
「随分と手慣れてるな。何が目的だ」
「うーん……強いて言うならそのチップの山かな。でも、それ以上に興味があって。吸血鬼のおにーさんに」
金は欲しいし吸血鬼の味見もしたい。そんな、己の欲を微塵も隠そうとしない態度が面白くてつい破顔する。
「っ、はは、わかった。じゃあ、ゾロ目が出たらこのチップはおまえにやるよ。ほら、」
ふたつのダイスを手のひらから落としてその行方を見守る。ころころと回り、すぐに止まったダイスの目はどちらも三を指していた。
***
幹部第四位の弟分だからと言って特別なことは何もない。だが、オーナーの弟という肩書きはなかなかに便利だった。ベッドが部屋の三分の一を占め、小さな丸テーブルの上に果物を積んでいるような簡素な部屋だが、これでも並の搭乗員よりは広い部屋をあてがわれている。毎晩一人で独占できる寝床がある。それだけでマオの暮らしは地上にいた頃よりも快適なものになった。
「っん……あ、僕、男の子だけど抵抗とかないの?」
「おまえは豚肉の雌雄を気にするのか? ……まあ、女しか食わない吸血鬼も実際に居るんだが」
「豚肉って……別にいいけど……でもその人は残念だね、僕を味わえないなんてさ」
自信満々に返せば黙れと口を塞がれる。部屋に入るなりベッドに倒れ込んだ二人は唇をついばみ合っていた。
仰向けに押し倒されているマオは自分を跨いで膝をつき、仕立ての良いコートを脱ぎ捨てているナハト卿を見上げた。案外乗り気なのかな……と思った矢先、降りてきた唇にまた呼吸を奪われる。
ふにふにと感触を楽しむように食まれていた唇を舐められて、促されるままに口を開ければその隙間から舌を差し入れられる。そのキスは見た目からは想像がつかないほど優しい。尖ったふたつの牙がときどき舌に当たり、痛みとは違う感触に背すじがぞくりと震えた。
「っあ、ちょっと待って、なんか変……!」
目の前の肩を押して唇を解放してもらう。愛撫というよりはまだ相手の出方を探っているような軽いキスだった。それなのに勃起している下半身が目に入ってしまい、なんで? と混乱してしまう。期待しているみたいで嫌だと目を逸らせば、その姿が面白かったのかくつくつと笑われた。
「血の巡りが早いだろ? 吸血鬼の唾液には軽い催淫作用があるんだ」
知らなかった。そんなこと。
固いマットレスに片手をつき、空いたほうの手でマオの頬を撫でながらナハト卿は続ける。長い爪が柔らかな肉にそっと埋まった。
「人間の血は肉が火照ってるときが一番美味いんだよ。でも、今から食われると理解したやつほど身体をガチガチにして青ざめやがる。だから俺たちはこれを使って緊張を解いてやるのさ」
言いながら、べ、と赤い舌を見せつける。その格好が外見相応で可愛らしいと思った。
「……じゃあ、僕も今が一番美味しいんだ……」
「ああ、おまえの血は天国級だ。なんたってこの俺に食われるために生まれてきたんだからな」
「……えっ? それってどういう――ッ、」
熱を持った身体と鈍る思考にふわふわと浮かされていると、いつの間にか首元の蝶ネクタイとシャツのボタンを外されていた。そのことに、剥き出しになった首すじに舌を這わされて初めて気がついた。慌てて逃げ出そうにも頭をシーツに押さえつけられていて、起き上がることも許されない。
「やっ、僕、そんなつもりじゃ……!」
生温かい舌が離れていったと思えばちくりと小さな牙が触れる。これがいつ薄皮を突き破るかわからない恐怖にマオはぎゅっと目を閉じた。
「……ちなみに、一度吸血された人間は二度目を求めて俺たちに身を差し出すやつが大半だ。どうしてだかわかるか?」
牙が当たっていた場所に口付けられ、今度は耳を舐められる。くちゅりと水音が響く中に男の低い声が混じっていて落ち着かない。それでも吸血鬼については何も知らない、わからないと小さく首を横に動かした。
「忘れられないからだよ。痛みの先にある快楽が」
ふ、と笑みをこぼしながら囁かれる。
「俺から離れられなくなる……そんな人生は嫌だろ?」
目の前の吸血鬼は諭すように続けながらマオを解放した。覆いかぶさったままの体勢は変わりなく、おまえの目的はこっちだったな、とスラックスの上から太ももの間に手のひらを差し込まれる。
――不自由な人生に価値なんてない。この人の言う通りだ。でも、でも。マオの頭の中でぐるぐると不純な思惑が巡る。
「っ、い、嫌じゃないって……言ったら、僕をここから連れ出してくれる…?」
スラックスを脱がし始めた手に自身の手を重ねてそう口にすれば、ナハト卿はぴたりと動きを止めて目を細めた。これでもう逃げられないと本能がざわめく。
「お望みとあらばどこへでも」
弧を描く唇から牙が覗く。痛みは一瞬だった。
首すじは熱く、血が抜けていく感覚もわからない。舌が肌を舐める感触も荒い吐息も生々しいのに、それがたまらなく心地良くて目の前の身体にしがみつく。
……熱い。くらくらする。何も考えられないまま、あ、あ、と漏れる声で喉を震わせた。
目を覚ませばシャツとスラックスを着込んだ吸血鬼がりんごを丸かじりしていた。ぼうっとした頭のままその姿を眺める。シャクシャクと小気味良い音と共に実からあふれた汁が指を汚し、手首に向かって伝っていく。おっと、と袖口を捲り舌を這わせたナハト卿と目が合った。
「起きたか。具合は?」
「うん……ん、平気」
裸のまま起き上がり床の上に散らばった衣類を拾い上げる。下着に足を通しているとベッドに腰を掛けたナハト卿に前髪を払われた。
「昨晩はじっくり見る暇もなかったが、髪が降りたら印象が変わるな。子どもみたいだ」
可愛い、と前髪越しの額にキスをされる。
「ホレイクにもこんな時期があったはずなんだけどなぁ……」
哀愁漂う父親らしい台詞にくすりと失笑しながらバーに案内した青年を思い出す。あの柔らかな物腰はさぞ女性受けが良いだろう。何だか自分と似たような気質を感じながら、彼をバーに残していたことを思い出す。
「昨日、声も掛けずにこっちに来ちゃったけど大丈夫?」
シャツを引っ掛けながらナハト卿の隣に座り直すと、食べかけのりんごを差し出された。赤い皮ごとかじって咀嚼する。
「心配するだけ無駄だろ。どうせ手当り次第女を口説いてベッドの中に誘われてるはずだ」
俺みたいにな、と付け加えられ、マオは心外だと唇を尖らせる。
「だって初めて見たときからずっと気になってたんだもん。誰と間違えたんだろーとか、僕のこと誘ってたのかなーとか」
「……っは、あれで誘われたと思ったのか? どおりで自信満々だったわけだ」
「うん。一目惚れしちゃった」
上目遣いで顔を覗き込めば顎に指が添えられてキスを贈られる。唇はりんごの味がした。
「……ねえ、おにーさんのことなんて呼んだらいい?」
「何でも、好きに呼んでくれていい。家の連中には旦那様とか御当主とか呼ばれてるぞ」
「じゃあヴァンパイアのヴァンくんだね」
「悪くないが威厳に欠けるな」
唇を触れ合わせながら小さな声で囁き合う。キスをしている間もあやすように頭を撫でられていて、自分は本当に愛されているんじゃないかと錯覚してしまいそうになった。
その指先で、唇で触れられたときから思っていたことだ。この人はどこか棘のある物言いをするくせに、どの所作も丁寧で柔らかくて、抗う気力さえ湧いてこない。懐柔されてしまう。虜になってしまう。
「……そういうおまえは? なんて呼ばれたいんだ?」
離れていったナハト卿が首を傾げながらマオの目を見つめる。他に呼び名があるんだろう? と疑わない瞳に吸い込まれそうになりながら、マオは己の心にだけ留めていた名前を口にした。
「……翔太」
野良猫のように薄汚い見た目をしていたから猫《マオ》と呼ばれることになった。そうして、名は体を表すという言葉の通り、少年は猫のように愛くるしくしたたかな生き物へと成長した。不満はなかったはずなのに。
「わかった。……翔太、いい名前だな」
目の前の唇が懐かしい名を紡ぐ。マオは――翔太は、じわじわと熱くなっていく目尻を拭った。捨てろと言われていた名前を誰かに呼ばれて、それがこんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。自分の名前を呼んでくれる人が現われるだなんて考えもしなかった。
泣くなよと困ったように言われても勝手にあふれてくるものは止められない。
「翔太、翔太。これから飽きるくらい呼んでやる」
肩を抱かれて腕の中に収まり擦り寄れば、子守歌のように名前を繰り返し呼ばれる。
バンッ! と、部屋の扉が乱暴な音を立てて開いたのはそんなときだった。
「――なるほど。おまえの魔性は化け物にも通じるらしいな、マオ」
「兄さんっ!? どうしてここに……!」
ぞろぞろと部屋へ侵入して来た黒服たちの中心には龍が居た。昇り龍の刺繍が入ったチャイナ服は特別な仕事着で、滅多に着ることはない。その手に持った拳銃が事の重要さを表していた。
銃口は吸血鬼に対して真っ直ぐ向けられている。ナハト卿は抱きしめていた翔太をそっと引き離すと静かに龍を見据えた。
「……ランズベリーの差し金か。大方、俺の死体を持ってこいとでも頼まれたんだろう? あれは自分の手を汚さない潔癖症だからな」
「御明察。我々の目的のため尊い犠牲となっていただく」
「わかった……と言ってやりたいところだが、これでも崇高な一族の末裔なんでな。この命、ただでくれてやるには惜しい」
「……ふうん、交換条件というわけか。死にゆくヴァンパイアに一体どんな望みが?」
芝居がかった台詞を吐きながら足を組み、龍の出方を窺う。やはり食いついてきた。ならば、あとはもう飲み込ませるだけだとナハト卿は顎をしゃくって翔太を注視させた。
「こいつをおまえたちから解放すると誓え。誓うなら大人しく殺されてやる」
「っな、何を言ってるの?」
声を荒らげた翔太に続き、龍の眉が怪訝にひそむ。
なぜマオを? という問いかけに一言「情が湧いた」と返せば、龍は馬鹿げた発言だと嘲るように笑った。
「――まあいいだろう、交渉成立だ」
「よくないよ! お金ならちゃんと自分で用意するから……っ、兄さん、これは僕と兄さんの賭けでしょう? この人は関係ないよっ、七百億の価値なんてない!」
懸命に訴える弟分の言葉には耳も貸さず、龍は標的に狙いを定めた。腕にしがみつき離れようとしない翔太にナハト卿は笑いかける。
「ホレイクに、苦労かけると伝えておいてくれ」
――次の瞬間、短い発砲音が響き渡り、撃たれたナハト卿がベッドの上に倒れ込んだ。弾丸は心臓を貫いたらしく、純白のシャツがみるみるうちに赤く染まっていく。
「俺との勝負はおまえの勝ちだ、マオ。今まで貯め込んだ金とヴァンパイアの亡骸、これでおまえの自由は保証しよう。……あっけない幕切れだったがな」
龍は拳銃を降ろしながら淡々と告げ、部屋から出て行った。
「……うそ、ねえ、う、嘘だって言ってよ、僕を連れて行ってくれるって言ったよね? 名前だって……っ、こんな、死んじゃうなんて聞いてない、」
まだ温かな死体を揺すり起こそうとする翔太に黒服たちが近づく。ある者は翔太を制し、ある者は死体に手を伸ばした。抵抗する気力もなくした翔太は、人の形をした何かが運び出されて行く光景を虚ろに見つめていた。
鮮血に染まったシーツと食べかけのりんご。
手元にはこれだけしか残らなかった。
***
五日はあっという間に過ぎ、豪華客船『ノートルダム号』は次の国に向けて出港した。『幸運の招き猫』と呼ばれていた少年を一人この地に残して。
あの日、ナハト卿が撃たれたあと、翔太はふらふらと船内を彷徨っていた。起こったことの顛末と最後の言葉を伝えなければいけないという使命感がそうさせていた。まだ陽も高い時間であったが、どこか女性の部屋に誘われているというナハト卿の予想は当たっていたらしく、ホレイクは見目麗しい令嬢をエスコートしながらカジノを満喫していた。
目が合うなりごめんなさいと泣き崩れた翔太にホレイクはひどく驚き、落ちた身体を支えた。泣きじゃくり、自分のせいでと繰り返す少年にお遊びどころではなくなってしまう。
父がマフィアの幹部と取り引きして撃たれたこと。その遺体がどこに連れて行かれたのかわからないこと。この少年と父の間に何があったのかは知らないが、シャツの間から見えた首すじの噛み跡には察するものがあった。
それからというもの、翔太はナハト家の屋敷に身を寄せている。他でもないホレイクの判断だった。
「様子はどう? 少しは食べてくれるようになった?」
「はい。なんとか……小鳥のついばみ程度ですが……」
食事が乗ったトレイを引き下げていた女中にわかったと頷いて、ゲストルームに続く扉を押し開ける。翔太はサロンチェアに深く腰掛けたまま微動だにしなかった。ホレイクはその正面に腰を降ろし、すっかり消沈してしまっている翔太を見据えた。
「君に死なれると困るんだ。父さんに合わせる顔がない」
テーブルに飾られた花瓶に手を伸ばす。真紅の薔薇を一本抜き取ると、棘に触れないよう花弁に口付けた。
「……この薔薇はうちでしか作れない品種でね、弟のカルセイズが孫娘が生まれた嬉しさに『レディ・エリザベス』って名付けた。父さんの好物だよ」
確証がないため口にはしないが、ホレイクはどうにも父が死んだとは思えなかった。元々、吸血鬼は不死の肉体を持つ。人間の血を吸えば吸うだけ生命力は高まり、長く生きることができると言われている。
ナハト卿は血を吸えない吸血鬼だ。だから花と酒で渇きを癒やしている。誰よりも吸血鬼らしく吸血鬼らしくない吸血鬼。実際、この百年狩りに出ている様子はなく、ホレイクもそう信じて疑っていなかった。
弱体化している身体に弾丸を浴びたのなら死を迎えることもあるのだろう。だがあの日、父はこの少年の首すじに牙を立てていた。どうして血が吸えたのか、その謎が解けたわけでもないが、本当にそうなら絶命するはずがないのだ。
夕食は一緒に食べようと提案して反応を窺う。翔太は乾いた唇を開いてぼそぼそと語り出した。
「……人が死ぬところを初めて見たわけじゃないよ。権力者の毒殺、裏切りへの制裁、飢餓に抗争……むしろ、たくさん見てきたほうだと思う。……だけど、僕のために死ぬ人は居なかった。僕が原因で死んだ人は誰も居なかったんだよ……!」
もう何も見たくないとばかりに両手で顔を覆った翔太とは真逆に、ホレイクは顔をほころばせた。手にしていた薔薇を花瓶に戻しながら感心した声で紡ぐ。
「……翔太は俺たちを人だ、って言ってくれるんだね」
歳を取らない吸血鬼はどうしたって奇異に映る。いつの時代にも二人を化け物だと罵る人間は居た。ずっと昔から生きているナハト卿は飽きるほど聞いてきた言葉に違いない。ホレイクは顔を上げない翔太に向かって「ありがとう」と告げた。
「ちゃんと人扱いされて、泣いてくれる人が居て、父さんも嬉しかったと思う。だからこそ君には誇ってほしい、生きていてほしい。……難しいことかもしれないけれど」
そんな、本心からの言葉を聞いて翔太がゆっくりと手を降ろす。涙を貯めた瞳を歪ませながら、うん……と力なく頷いた直後のことだった。
「――なんだ、二人ともここに居たのか」
ゲストルームの扉が開き、場の空気を読まない台詞が聞こえてきた。その声は聞き間違えようもなく喪った人物のものだった。
びくりと肩を跳ねさせた二人が見つめた先には慌てる女中を引き連れたナハト卿が、翔太の目の前で撃たれたはずのナハト卿が泥まみれの格好で佇んでいた。
「父さん! やっぱり、帰ってくるような気がしてたよ……!」
「当然だろ」
サロンチェアから立ち上がったホレイクは得意げに口角を上げる見慣れた姿に声を震わせる。ナハト卿は女中に着替えを持ってくるよう指示をして、立ちすくむ翔太に視線を向けた。
「……ん? どうした翔太、幽霊でも見たような顔をして。……ああ、少しやつれたか。可哀想に」
まともに食事をしていない身体が思うように動くはずもない。それでも翔太は力を振り絞って一歩、また一歩と足を進め、近づいてくるナハト卿の胸に縋りついた。
「し、死んじゃっ、うえ、うぇぇえっ、」
「ばか、汚れるぞ」
土埃も気にせずにわんわんと泣く翔太の頭に手を伸ばし、一瞬だけ躊躇ったあと、くしゃくしゃと撫でまわした。確かに責任を感じさせるような言動を働いた分の非はある。こうなるのも無理ないか、と気が済むまで泣かせることにした。
そんな翔太の側に立ち、「何があったのか聞いてもいい?」というホレイクの言葉に頷く。
「……あのあとランズベリーの屋敷に運ばれたんだ。恨み言を散々吐かれていたぶられて……で、街外れの山に埋められた。船が出る前に目覚めても無意味だからな、日が過ぎるのを待ってたんだ。……まあ、バラバラに解体されようものならさすがに起き上がっていたと思うが……そこは幸運だったな」
ちなみに土の中から這い出たあと、ランズベリー伯爵にはきちっと灸を据えた。始末したと思った相手が生き返って目の前に現われるだなんて、驚愕と恐怖がこびりついたあの顔はしばらく忘れられそうにない。
「おまえらにも見せてやりたかったぜ――っと!」
笑うナハト卿の身体がぐっと沈む。翔太だ。ひくひくとしゃっくりを漏らしていると思った矢先のことだった。泣き疲れたのか張り詰めていた糸が切れたのか、シャツを掴んだまま寝落ちている。翔太を支えながらその場に座り込んだナハト卿は目の下の濡れた隈をそっとなぞった。
「……しょうがねえやつ」
「なんていうかさ、父親に恋人ができるって不思議な気分だよ」
つられてしゃがみ込んだホレイクは抱き合う二人に生温かい視線を送った。
「こ、恋人って……っ、あのな、そういう枠には当てはまらないぞ、こいつは」
気恥ずかしそうに咳払いをして視線を泳がせている。その反応こそが答えだと言っているようなものなのに。はいはいわかりましたとホレイクはナハト卿を適当にあしらい、眠る翔太の頬をつついた。
「死んでも護りたかったんでしょう? なら、うんと大事にしないとね」
ちらりと盗み見た顔は何かに満たされたような笑みを浮かべている。さみしがりやのヴァンパイアを誰よりも近くで見てきたホレイクには、それだけで十分だった。
***
昔むかし、村はずれの古いお城にさみしがりやのヴァンパイアが住んでいました。ヴァンパイアはとても凛々しく美しく、気高き夜の王と呼ばれています。
ある日、ヴァンパイアは己を退治しに来たエクソシストと友だちになりました。けれどお城にはヴァンパイアに血を吸われた大人や子どもたちが毎晩のように訪れます。
「ヴァンパイア様、お願いします。今夜もわたくしたちの血を吸ってください!」
大人も子どもも、みんなヴァンパイアの虜になっていたのです。エクソシストもヴァンパイアに血を与えていましたが、聖職者ゆえに吸血の影響を受けません。だからこそ一緒にご飯を作り、本を読み、お昼寝をする相手が毎晩知らない人間の首すじに牙を立てている。それがヴァンパイアという生き物だとわかっていても心のもやもやが晴れないのでした。
「ぼくだけの血で満足してもらえないかなあ」
エクソシストは日に日にそんなことを考えるようになっていました。
そんなある日の夜、村人を説得すると言って出かけていたエクソシストがひどい大けがをしてお城に帰ってきました。子どもや親をヴァンパイアに狂わされた村人たちのしわざでした。
あいつを殺せ。おまえを雇ったのはあの城に住まわせるためじゃない。娘の顔がどんどん青白くなっていく。働き者だった父さんを返して。ヴァンパイアを、あの化け物を殺せ! 殺せっ! 殺せえっ!
「……っ、ごめんなさい、ぼくには無理だった……」
あなたはこんなにも優しいのに。ヴァンパイアにだってさみしいと思う心はあるのに。ヴァンパイアの腕に抱かれたエクソシストはぼろぼろと泣きながら謝り続けます。
「いいから、はやくその短剣でおれを刺せ」
ヴァンパイアは並大抵の怪我では死を迎えることはありません。それでも、退治できたと見せかけることさえできればエクソシストの命は助かるかもしれないと思い、ヴァンパイアはエクソシストの短剣に聖水をふりかけました。
背中をばっさりと斬られていて、どくどくと血が止まらないエクソシストは自分がもうすぐ死ぬとわかっていました。力が入らない両手に短剣を握らされて、ヴァンパイアの胸に刃先を突きつけられます。
「ひとりにしちゃってごめんね……っ、大好きだよ……生まれ変わっても、あなたに逢いたい……」
エクソシストの想いは声になりませんでした。はくはくと短い呼吸を漏らしながら、ヴァンパイアの手を借りてその胸に短剣を突き刺します。
強い気持ちが乗った短剣には不思議な力が宿ります。幸か不幸か、その瞬間、エクソシストのヴァンパイアを独占したいという想いが呪いというかたちで成就してしまったのです。
まだそのことを知らないヴァンパイアは自分の腕の中で事切れたエクソシストにささやきました。
「……おまえがいてくれて楽しかった。ありがとう」
死んだ人間の魂は転生すると信じられています。待ち続けていたら、もしかしたらまたどこかで出逢えるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、ヴァンパイアはエクソシストを強く抱きしめて目を閉じました。
城の外が騒がしく、怒号や悲鳴がやみません。村人たちが城に火を放ったのです。ヴァンパイアはどうでもいいと逃げることもなく、ごうごうと燃える城の中心で、いつまでもエクソシストから離れることはありませんでした。
二つ目の怪物/200927