伊集院北斗がスマートフォンを横に構えて微笑んでいる写真がSNSに投稿されたのは、彼が三十五歳の誕生日を迎えた直後のことだった。投稿者のアカウント名は『amagasetoma_official』。プロフィール欄に『Jupiter / 天ヶ瀬冬馬』とだけ書かれた、本当に本人のものかもわからないアカウントにファンたちはざわめき、翌朝にはネットニュースにまで発展した。
 天ヶ瀬冬馬を名乗るアカウントは偽物か本物か。この問題に関しては早々にジュピターの公式アカウントが投稿したコメントが決め手となり決着がついた。

 ――冬馬くん個人のアカウント開設にファンは驚いたと思うんだけど、あれは伊集院さんの誕生日をサプライズでお祝いしたかったって裏話があったんだよね?
 そうっすね。俺はあんまりSNSとか詳しくないんで、その辺は翔太に言われるがままやったって感じっす。写真は俺が持ってる中で一番北斗らしいと思ったやつを選びました。あいつも撮りたがりだから苦労するんすよ。

 ――あはは、お返しとばかりに冬馬くんの写真も伊集院さんにアップされちゃってたね
 俺の誕生日に北斗が投稿したやつっすよね。あれは休憩の合間に撮ってて、俺がシャッターを切る直前に北斗がスマホ構えてって瞬間の写真だから、失敗っちゃ失敗なんです。でもファンのみんなに好評でよかった。

 ――あのとき構えてたカメラは私物なの?
 はい、前から気になってたやつを思い切って買ってみました。うちの写真係は基本北斗なんすけど、翔太が撮って撮ってってうるさくて……。でも、きっかけはあれかな。人を撮るのって意外に面白いっつーか、楽しいっす。


 そう、インタビューに答える冬馬の手には撮影用に準備されたフィルムカメラがあった。正面からカメラを構えたり、可愛らしい花が咲く小鉢を撮ろうとしている姿が載っている。流行りの丸メガネを掛け、カジュアルなセーターとデニムを着こなしている冬馬の格好はそれでもアイドルらしく絵になっていた。
 ステージ上の俺様なイメージが少しだけ和らぐからか、冬馬のコラムは控えめなファンにも人気だ。月刊の女性向けファッション雑誌でもう七年以上続いている二頁のコラム。話題は私生活からアイドル活動、メンバーの話と多岐にわたる。
 そんな冬馬が、SNSは見ない・やらない・わからないというのが通説だった天ヶ瀬冬馬がサプライズのためとはいえアカウントを開設し、きちんと更新している現状はファンにとって青天の霹靂だ。冬馬にとっては趣味で撮った写真をアップするための場所になっているのかも知れないが、それでも。
 天ヶ瀬冬馬にはアナログなイメージがある。だからか、フィルムカメラを真剣に構える姿にはついため息が漏れてしまうのだ。デビューして今年で十五年。第一線を走るアイドルが明かすには派手さに欠ける趣味だ。そのギャップが数多の女性を虜にしていた。

「ちょっとー勝手に撮らないでよ。モデル料請求しまーす」

 ピピッと聞き慣れたシャッター音とパッと光ったフラッシュに翔太は眉をひそめながら利き手を額まで挙げた。ダイニングテーブルの上にはタブレットがあり、その液晶画面には件のファッション誌が開かれている。画面の中で柔く微笑んでいる男と向かいに座る男が同一人物なのだから不思議だ。
 そして、そんなファン向けの顔にも十分ときめいてしまう自分が悔しい。
「金取れるだけのポーズができんのかよおまえに」
「そりゃあ北斗君には劣るだろうけどさ、僕だってグラビアくらい楽勝だし。ていうかこの記事のここ、うるさいってひどくない? 可愛い弟の可愛いおねだりじゃん」
「いや、おまえもう三十路だろうが。いつまで自分のこと可愛いとか言ってんだよ」
「残念でしたー。僕はまだ二十八だし、一生可愛いんですぅー」
 べえ、と年甲斐もなく舌を出して冬馬に勝ち誇っていると、キッチンでつまみを作っていた北斗が戻ってきた。鯛のカルパッチョに湯気立つジャーマンポテト。自信作なのか「ご賞味あれ」と、シェフのような台詞と共にテーブルの中央に置かれる。冬馬と揃って「美味しそう〜!」と絶賛の言葉をかけると翔太はフォークに手を伸ばした。
 大人の男が三人も集まれば自然に酒へと手が伸びる。今夜もそうだった。年々荷物が減っていく北斗の部屋で、ジュピターの三人は仕事の話を肴に頬を赤らめていた。
「それにしたって冬馬、今になってカメラのことを話すだなんてどういう心境の変化なんだ?」
 翔太の隣に座った北斗がカラカラとウイスキーを注いだグラスを傾けながら問う。冬馬がフィルムカメラを買ったのは最近の話ではない。今のカメラは二代目で、確か、一代目は二十歳を迎えた頃には手に入れていたと翔太は記憶している。
「別に、理由があるわけじゃねえけど……撮りっぱなしにしておくのはもったいねえってずっと思ってたし、プロデューサーだってアップしていいって言ってくれたし、じゃあやってみるかって、それだけだよ」
「ツイスタも慣れたら楽しいでしょ? ……あ、でも冬馬君、自分の名前とかジュピターのこととか調べちゃだめだからね。ちゃんと言ったからね僕」
「わーってる」
「まあ、悪いことばかりでもないよ。見てくれる人が居なくちゃ、俺たちの仕事は成り立たないからね」
 アルコールのおかげで思考には靄がかかっているが、北斗の言葉にうんうんと頷いて、翔太はマヨネーズと粒マスタードのソースを絡めたポテトを頬張った。
 さっきまで手にしていたカメラを椅子に掛けていたハンドバッグの中へそそくさと仕舞い、ハイボールが入ったグラスを掴んだ冬馬を見つめる。冬馬は何も言わないし、北斗も気づいているのかいないのか我関せずな態度を取っているが、翔太には確信していることが二つある。
 一つ目は、冬馬は同じ型のカメラを二台持っていて、それを被写体によって使い分けているのだということ。二つ目は、自分の気持ちが冬馬にはとっくの昔にばれていて――それで、冬馬のほうも憎からず想ってくれているんじゃないかということ。後半は憶測だ。
 翔太は冬馬が好きだ。しかし十代の頃から温め続けてきた初恋を昇華することもできず、面倒くさい方向へとこじらせている。冬馬に告白する勇気はなく、冬馬に好意を寄せられても困る。今更、冬馬以外の人を好きになれるとも思わないが、だからと言って冬馬と恋人同士になりたいとは思わない。そういう関係を望むには歳を重ね過ぎていた。
 十代の頃は、冬馬を独占したい気持ちで頭がいっぱいだったのに。写真を撮ってほしいとねだっていたのだって、冬馬に自分だけを見ていてほしかったからだ。
「……カメラの話はいくらしたっていいけどさあ、それで僕の写真を出すのはやめてよね」
 冬馬と北斗がお互いの誕生日にアップした写真は――冬馬と北斗が向かい合い、シャッターを切ろうとした瞬間の写真は想定よりも多くの反応があった。冬馬のSNSアカウント開設も相まって、少し前まではどの現場に行っても話題になっていたのだ。
「別に、変な写真じゃねえだろ」
「そうだね。俺もあの写真好きだよ」
 もうやだこの二人。翔太は空になったグラスに北斗お手製のサングリアを注ぎながら、盛大なため息をつきたい気持ちをぐっと抑えた。
 冬馬が「カメラに興味を持ったきっかけ」だと言って番組に提出した写真には、満面の笑みでピースサインをとる翔太が写っている。翔太が冬馬に頼んで撮ってもらったものだ。若かりし頃の姿も可愛いと評判だが、翔太としては不本意な一枚だった。あの写真が、というわけではなく、あの時期に撮られたすべての写真がそうだった。
 きらきらと憎たらしいほどの笑顔。自分は特別な存在で、望めば何でも叶うと信じていた。世界の中心はいつだって自分だったから――冬馬のことだって、振り向かせて、手に入れられると本気で思っていた。
 写真越しだからこそ伝わる、冬馬が好きだと訴える瞳は眩しさを通り越して痛々しい。だって十五年だ。十五年。捨てられるわけがない。
 何もなかった翔太から何もかもを奪っていった。冬馬とは、出逢うのが早すぎたのだ。
「……昔の僕もかわいいけどぉ、今の僕じゃだめだって言われてるみたいで嫌なの〜」
 本心を綺麗に包み隠して唇を尖らせると北斗が「可愛い可愛い」と、頭を撫でてくれた。
 ジュピターの最年長である伊集院北斗は相変わらずエンジェルちゃんとのデートを満喫している。いつか「ジュピターしか愛することができない」なんて壮大な告白をしていたが、その言葉の通り北斗は特定の誰かと一生を添い遂げるつもりはないらしい。
 対する冬馬は数年前、たぶん、ほんの一時期だけ恋人が居た。本人から直接話を聞いたわけではない。それでも、やたらそわそわしてスマートフォンに手を伸ばす回数が増えていた時期があった。仕事が終わればさっと帰り、北斗と翔太が冬馬の部屋に訪れる回数も減った。
 冬馬を射止めた相手に興味はない。その場所を変わってほしいとも思わず、翔太は恋に浮かれる冬馬の側で普段通りの態度をとることしかできなかった。

「――っあれ!?」

 勢いよく起き上がり辺りを見渡す。真っ暗な部屋に浮かぶ家具のシルエットを擦った目で見つめれば、ここが北斗宅の一室だとすぐにわかった。北斗は余っている部屋を来客用にしている。冬馬と翔太が泊まるときは決まって翔太がこの部屋を使うことになっていた。
 折りたたみベッドから降りた翔太は部屋のドアを開けて、しんと静まり返った廊下を歩きリビングへと足を運んだ。いつお開きになったのか記憶が定かではないが、最後のほうはぐずぐずになっていたような気もしないわけではない。
 いっそのこと、冬馬君への想いも忘れてしまいたいなあ、なんて。
「……冬馬くん、」
 毛布にくるまってソファに横たわる冬馬を見つける。ソファに近づいて腰を落とすと、月明かりに照らされた顔が触れられる距離にあった。呼吸は整っていて静かなのに、眉間に寄る皺が寝苦しさを思わせて、夢見は大丈夫なのかと心配になる。
「ほんっと、僕をどうしたいわけ?」
 そんな相手に毒を吐いてしまう己を自嘲しながら、翔太はどうすることもできない現状に今度こそため息をついた。好意を自覚したときに好きだと伝えていれば、こんなふうに引きずることもなかったのだろうか。
 あの頃は、冬馬に写真を撮ってもらう時間が幸せだった。たった数秒でも自分だけを見てもらえている瞬間が永遠のように感じられた。あのときと同じ気持ちでいられないからか、今はもう、あまり撮られたいとは思わない。
「……」
 椅子に掛かったままの、冬馬のハンドバッグを睨みつける。冬馬が使い分けている二台のフィルムカメラ。気づいていないとでも思っているのか。
「……翔太?」
 突然の呼びかけにびくりと肩を跳ねさせる。緩慢な動きで起き上がった冬馬は、ソファに転がしていたスマートフォンをタップすると「二時過ぎか……」と頭を掻いた。翔太の存在を気にも留めず立ち上がり、欠伸をしながら大きく伸びをする。冬馬は勝手知ったるリビングを歩きだすと照明のスイッチを押して部屋を明るくした。そのまま、椅子に座って出しっぱなしにしていたウイスキーの瓶をグラスの中へと傾ける。
「ねえ、何してるの」
「……飲みなおし? 翔太も付き合えよ」
「いいけど、僕は飲まなくていいかな」
「はは、酒弱いもんなおまえ」
「悪い?」
「いいや、可愛い」
 ダイニングテーブルに向かう途中、掛けられた言葉は聞き間違いかと思って反応することなく流した。冬馬の向かいに座って、いつ出されたのかも覚えていないピーナッツの菓子を摘み上げる。黙り込んだ冬馬の顔を覗き見れば、とろけた瞳を細められた。
「かわいいよ。いくつになっても翔太は」
 世の女性がこの表情で口説かれたら即落ちしてしまうんだろうなと、どこか他人事のように思う。
「冬馬くんだって、ふにゃふにゃしてて可愛い」
 これは酔っぱらいの戯言だ。そう思って翔太も軽い言葉を返した。……ああでも、やっぱり飲んでしまおうか。じわじわと火照り始めた顔を誤魔化すためにも。
「……なあ翔太、おまえは好きだって言われたくらいじゃあ靡いてくれないんだろ?」
「……なにそれ、何の話?」
「俺とおまえの話」
 グラスをテーブルに置いた冬馬が翔太を見据える。頬杖をついておどけてみせた翔太に冬馬はむっと眉をひそめて、不機嫌を隠さない。
「俺は何も言うつもりねえし、いくらだって待てる。別に、今のままでいいとも思ってる。どっちに転んだって後味悪くなるような関係じゃねえしな。おまえ次第だぜ? 翔太」
「……へえ、僕の気持ちを知っててそんなこと言うんだ」
「寝込みも襲われねえからむかついてんだよ」
「そういうの同性でも犯罪になるからね」
 勝手なことを言う冬馬に翔太も負けじとヒートアップしていく。グラスを横取りすると中身を一思いに飲み下した。冬馬から「やめとけ」と制止されてしまったが後の祭りだ。こんな状況、飲まなければやっていられない。
「じゃあ何? もしかしてさぁ、僕を撮るときだけカメラを変えるのは冬馬くんなりのアプローチだったりしたの?」
 冬馬の背にあるハンドバッグを指差しながらずっと訊きたかったことを口にする。ぜんぶがぜんぶそうというわけではないのだろうが、おそらく冬馬は翔太を撮るときとそれ以外とでカメラを使い分けている。
 二人ともしばらくの間黙り込んでいたが、翔太の追及に観念したらしく冬馬はカメラを取り出すと重たい口を開いた。
「……好きなやつは、特別だろ」
「ふーん。やっぱりそうなんだ」
 実らせるつもりもない恋だが、事実を突きつけられれば嬉しくなる。頬の赤らみと心臓は高鳴りは過剰なアルコール度数のせいにできても、にやけてしまう口元には言い訳が利かない。翔太は冬馬の脛をつま先で小突いたりしながら、ぐわんぐわんと重く熱い頭を腕ごとテーブルに預けて伏した。
 大丈夫かと己を心配する声に平気だと返して、冬馬を見上げる。
「……じゃあ撮ってもいいよ。仕方ないから、冬馬くんだけ特別……ね」
 言いながら眠くなってくる。成り行きとはいえ、せっかく腹を割って話すことができたというのに。明日になれば今夜のことは忘れてしまうかもしれない。まあ、それでもいいやと翔太は思えた。近すぎず、遠すぎず。この距離感が心地良い。
 ピピッと聞き慣れたシャッター音とパッと光ったフラッシュに身を委ねていると、「あ、」と冬馬が声を発した。
「来月の誕生日、何か欲しいもんあるか?」
 誕生日。そういえばそうだったなあと、まどろみながら考える。
 欲しいものなんて今も昔もひとつしかない。カメラを構えたままの冬馬に翔太は甘ったるく答えた。

「おしえてあげない」




いつかもしかのアイウォントユー/210327