午前2時58分。ちょうどいい時間に来ることができたなと冬馬は運転席のシートに沈み込んだ。そのままの体勢で、助手席に投げていたスマートフォンへと手を伸ばす。

 メッセージアプリに並ぶ愚痴と甘えは席を外すたびに打ち込んでいたのだろう。焼きナスがおいしかった、なんて報告を最後に日付を跨ぎ、以降のメッセージはすべて現状を嘆くものへと変わった。

 時は遡ること午前2時23分。
 枕元に置いているスマートフォンがパッと光って震えた。メッセージを受信するたび安眠を妨害してくるそれに耐えられなくなった冬馬は、かすむ目を擦りながら通話ボタンをタップしたのだ。
 規則的とは言えない生活を送っている身にさらに不規則を重ねるだなんて愚か者のすることだ。自嘲しながら、5コール目で繋がった相手から即座に居場所を聞き出す。迎えに行ってやると付け加えれば「さっすがぁ」なんて、とろみのある声色で喜ばれた。
 単純な話だ。つまらないのなら、帰りたいのなら、お暇すればいい。こんな時間まで連れ回されて、昭和30年代生まれの武勇伝にも耳を傾けてやったんだろう? シメはラーメン朝までコースに最後までお供できなくとも文句は言わせない。こちらが売る媚はないのだから。
 抜け出せる算段がついて嬉しいのか、はにかんでいる様子が電話越しにも伝わってくる。3時目標で行くと告げて通話を切り、冬馬は己の性分を改めて嘆いてしまった。
 マネージャーでもここまで甲斐甲斐しい世話は焼かない。惚れた弱みだと言えたなら、まだ救いようはあったのに。
 というか、安眠を死守したいだけならスマートフォン本体の電源を切ればよかったんじゃないか? それに気がついたのはベッドから這い出て着替えを済ませ、さて一服と煙草に火を点けたあとのことだった。

 北斗による車談義(本人は英才教育だと称している)の賜物であるC43AMGを地下駐車場から引っ張り出し、閑静な夜の街を駆け抜ける。目が覚めるようなこのエンジン音に何度惚れ惚れさせられたことか。
 身に着けるものだって、食するものだってこだわりはない。いたって一般的な庶民感覚を持つ冬馬がダイヤモンドホワイトカラーの愛車に惜しみなく金と手を掛けている様は、元来の凝り性を思えば必然としか言いようがない。
 とはいえ平時における金銭感覚は狂いないつもりなので、北斗から570Sを見に行こうと誘われたときは耳を疑った。これから夕食でもどう? みたいな軽やかな口振りの北斗を相手に「買う気か」と訝しんでみれば「冬馬が気に入ったならプレゼントするよ」なんて、想像以上の言葉が返ってくる。伊集院北斗ほど美しく恐ろしい男を冬馬は他に知らない。
 件のスポーツカーに搭載されている、あの二次元から飛び出してきたようなディへドラルドア。確かに魅力的なギミックで、試乗会で実物に触れたときの感触や興奮は今でも忘れていない。ただ、日常的に乗るのか? という自問自答の解は否だった。おかげでプレゼントとして贈られることもなく、北斗が所有する運びとなったのだ。
 車は芸術の塊だ――とは北斗談である。
 こだわりどころは千差万別。だが、360度どこから眺めても美しく映えるよう洗練されたデザインは万国共通だ。おまけに歴史や哲学も備わっているとなれば、惚れ込んでしまうのは必然だった。
 中にはいくら話を聞かせても響かず興味も持たない翔太のような者もいるのだが。冬馬は恋人と趣味を共有したい願望は持ち合わせていないため、付き合いに支障はない。サーキットへ連れ出せば一緒に目を輝かせて白熱してくれる。それだけで十分だった。

 午前3時1分。約束の時間を過ぎても店先の扉は微動だにしない。
 到着したというメッセージも既読にならないし、去り際になって捕まったのかもしれない。冬馬はハンドルを指でトントンと音もなく叩き、店名が描かれているハワイアンテイストの看板を睨んだ。
 そのまま2分が経過する。冬馬は諦めたような深いため息をつくと運転席から降り立った。カランカランと重いベルを鳴らす扉を開けて店内を見渡す。真っ赤な顔で談笑している局のプロデューサーとディレクターと目が合い、すかさず頭を下げた。
 席には代理店の担当と制作スタッフも何人か居て、なるほどこれはと納得する。まさに、つまらなくて逃げられない新年会だ。
「あっれぇ〜天ヶ瀬くん?」
「すみません。翔太回収しに来ました」
「え〜!? じゃあ御手洗くんが居候してるのって天ヶ瀬くんのところだったんだ? 迎えが来るって聞いたから彼女なんだとばっかり! ごめんねえ御手洗くん疑っちゃって〜」
「もぉー……おそいよとーまくん……」
 やはり捕まっていたらしい。冬馬は頬を膨らませてつんと拗ねてみせる翔太の頭をくしゃりと撫で回し、向かいの席で声を荒らげるディレクターに愛想笑いを向けた。
「じゃあ、お先に失礼しますね」
 しつこく絡まれる前に撤収しようと翔太の腕を掴んでテーブルから立ち上がらせる。ふらりとよろけた翔太を支えたのは隣に座っていた若い制作スタッフだった。
 冬馬が謝るよりも先に、こちらこそすみませんと目配せをされる。上司がいる手前、声には出せなかったのだろう。翔太が飲んでいた水も、もしかしたらこのスタッフが気を利かせてくれたのかもしれない。
 おつかれさま、また今度、収録でね、と飛んでくる言葉に翔太は頷き、同じような台詞を返していた。足取りはおぼつかないが意識ははっきりしている。気持ちよく酔っているだけだ。翔太は酒には強いほうだから。
「そうそう、天ヶ瀬くん」
 翔太を抱えたまま歩き出した冬馬を呼び止めたのは昭和30年代生まれのプロデューサーだった。濃い紫煙をたっぷりと吐いたその男に、そちらのプロデューサーにも言ったんだけど、と前置きをされる。
「来月からのジュピター再始動ね、僕らも楽しみにしてるよ」
 この場で一番トップに立つ人物からの試すような、激励にも似た言葉にぞくぞくと背すじが痺れる。
「――はい。期待しててください」
 君たちには稼いでもらわなきゃ困る。
 そんなニュアンスも含んでいたのだろうが、それでも冬馬は勝ち気な笑みを隠さずに応えた。

 ジュピターが翌年2月からの芸能活動を1年休止するという報道が世間を騒がせたのは、クリスマスイルミネーションが各地で灯りはじめた11月も半ばのことだった。
 パリを本拠地とするファッションブランドの広報が北斗に専属のモデル契約を結ばないかと打診してきたのだ。期間は1年。活動拠点も現地となる。だが、その年の新作発表会はもちろん、コレクションにも出演できることが約束されていた。
 モデルとしてのキャリアや年齢を考えてもこんなチャンスは二度と来ない。話を受けるかどうか北斗は悩んでいたが、最後には挑戦することを決めた。求められてるのはアイドルの俺じゃないんだろうけどね、などとぼやくその表情は少し固かったが。本場とも呼べる土地でモデル業に挑むのだから当然だろう。冬馬は快く北斗を送り出そうと決めていた。
 しかし、波乱は終わらない。
 1年は翔太と2人きりで活動することになるのか……と考えていた矢先、プロデューサーが「実は翔太さんも日本を離れることになりまして……」と気まずそうに告げてきたのだ。
 北斗の話がまとまりかけていた頃、翔太は翔太でこそこそと動いていたらしい。10代の頃から誘いを受けては断っていたダンサーの元でダンスを学びたい、という申し出が翔太からあったのだとプロデューサーが教えてくれた。北斗が抜けるこのタイミングは翔太にとってもチャンスだったのだ。それはわからなくもない。だが。
 相談もなしに身のふり方を決めてしまった事実にむかっ腹が立つ。当然、翔太とはその日の夜に言い争いの喧嘩をした。
 実のところ、アイドルの天ヶ瀬冬馬と御手洗翔太はあまり馬が合わない。過程があるから結果も伴うのだと主張する冬馬と、過程がどうあれ結果よければすべてよしと主張する翔太。2人がバンドを組んでいたなら即解散だ。
 言い合いの最中、翔太は「このままじゃだめなんだよ」と力なくこぼした。何が、なんて聞き返さなくてもわかる。冬馬も、それからきっと、北斗だって同じような気持ちでいたのだから。
 黒井崇男の元でジュピターが結成されて10年。10年も走り続けていれば自ずと先が見えてくる。限界とも呼べるそこが、決して目指していた場所ではないことを3人は理解していた。
『国民的』だなんて冠をメディアにつけられるほどのアイドルユニットへ成長しても、決して慢心はできなかった。さらに上へ行くためには、トップアイドルになるためには何かが足りない。その何かがわからず3人とも足踏みしていたのだ。
 北斗がモデルの仕事を受けたのは、翔太がダンスを学びたいと思ったのは、現状に甘んじていてはいけないという意識があったからに違いない。顔や態度には出さずとも誰もが焦っていた。翔太がこぼした本音を聞いて、冬馬も現実を突きつけられたような心地になる。そうだ、このまま、停滞しているようでは駄目なのだ。
 こうして、ジュピターは芸能活動を休止することを発表した。
 クリスマスを前に翔太が渡米し、自身の誕生日を前に北斗が渡仏した。
 寒空の下、止めどなく離陸する飛行機をぼんやり眺めていると、隣に立ったプロデューサーが「少し、休みますか?」なんて声を掛けてくれた。独りになっても仕事は続けるつもりだったため、その気遣いには首を振る。
 冬馬には北斗や翔太と違って一芸に秀でたものがない。
 休んでいる暇などありはしない。一番焦って然るべきは己なのだと、冬馬は歯を食いしばった。

 午前3時6分。助手席に翔太を押し込んで運転席へと乗り込む。
 酔っているとはいえ、車に乗ったらシートベルトはつけるもの、という意識は働いていたらしい。カチンと耳馴染みがいい音を聞き届けて冬馬は車を発進させた。
「ったく、いいよなおまえは。明日もオフなんだから」
 俺は普通に仕事なんだぞと文句をつければ、翔太は何が面白いのか唇を結んだまま笑う。シートに沈み込んだ身体は気持ちよく揺られていて、まるで危機感がなかった。無防備とも言える。
「んー? ……ふふっ、大変なんだね、とーまくん」
「ほんとだよ。誰かさんからの通知がうるさくて寝られやしねえ」
「……だってぇ、プロデューサーさん呼び出されちゃったし……」
 1年をきっちりダンスに費やした翔太はクリスマスの前に帰国した。まだ休止期間中ということで、受ける仕事といえばラジオや雑誌といった突発で控えめなものばかりだ。プロデューサーにくっついて挨拶まわりという名の飲み会に参加している数のほうが圧倒的に多い。その成果もあって来月以降のスケジュールは順調に埋まりつつあった。
「ん……とーまくん、ちゅうー」
 赤信号に引っかかったタイミングで身を乗り出してきた翔太に唇を寄せられる。本人的には上手に煽れたつもりなのだろう。冬馬は目を閉じてキスをねだる翔太の火照った頬に手を添えると、柔らかな下唇を親指の腹でなぞった。
「……は、酒くせえ」
 台詞の割には甘い声色で吐き捨てる。その口で目の前の薄く開いた唇に己のものを重ね合わせた。しっとりとした感触の唇を堪能しながら何度か角度を変えてみたりして、たっぷりと6秒間。そんなつもりはなかったのに7秒目で舌をねじ込まれてしまい、冬馬は即座に身を引いた。
「っ、こら、人を口直しに使うな」
「えへへー。……ね、口直しついでにあとでしゃぶってもいい?」
「いいわけねえだろ! つーかおまえ! そういう顔に似合わねえこと言うのやめろ!」
 唾液の糸を指先で拭いながら赤い舌先を挑発的に覗かせる。翔太の顔面をぐっと手のひらで押し戻し、冬馬はハンドルを握った。
 信号がすでに青く光っていたため慌ててアクセルを踏む。後続車が居なかったことが救いだ。
「えー……じゃあ、舐めさせて?」
「却下」
「なにそれぇー。だめならぼく、言い損じゃん」
 冬馬がどんな反応を返しても面白いのか翔太はきゃらきゃらと笑う。
「とーまくんはぁ、いじらしい子がすきなんだよねえ。だよねぇ、かわいいもんねえ」
「はあ? 何わけわかんねえこと言って……」
 文句のひとつでも言ってやりたかったのだが、酔っぱらい相手には無駄だと気づいて言葉尻が弱くなっていく。
 それに、冬馬が好きになれた相手は今も昔も翔太だけだ。たとえ恋人という肩書きがなくても、このあけすけな男に惚れっぱなしで囚われっぱなしなのだと思う。ちなみに現在進行系だ。
 些細な喧嘩が別れ話に発展して売り言葉に買い言葉。別れと復縁を何度も繰り返して、付き合っているのかいないのか。そういう曖昧な状態が続き、ついに冬馬と翔太はお互いを恋人と呼ぶことをやめた。
 それでも嫌い合っているわけではないため、2人は相変わらず世の恋人たちと同じような距離感で接している。翔太なんかは帰国しても実家に帰らず冬馬の部屋へと転がり込んでいる始末だ。部屋は探すからと言って、そんな気配は微塵もない。
 恋人関係を解消してからというもの、好きだ愛してるだなんて台詞が2人の間を飛び交うことはなくなり、当然喧嘩をしても別れ話が出ることはなくなった。関係はうやむやでも、たったこれだけのことで恋人同士だった頃よりも上手くいっているのだから恋愛というものは不思議だ。
 それに、本音はなんてことのない言葉の裏に巧妙に隠してしまえるのだ。月が綺麗ですね、死んでもいいわ。――何も、好意を伝える言葉はひとつではない。どちらかといえば、冬馬の翔太への好意は言葉よりも態度に出ることのほうが多いのだが。
 またしても信号に捕まり、車を停止させる。
 ちらりと助手席に視線だけを向ければ、頬をシートに預けた翔太がまっすぐに冬馬を見つめていた。とろりと溶けだしそうな瞳を細めている。ずいぶんと熱のこもった眼差しをくれるものだと冬馬は思った。
「……寝るなよ」
 ごく自然に口から出た台詞は、この場の雰囲気には似つかわしくなかったかもしれない。なのに翔太は嬉しそうに口元を緩めた。
「寝ないよ……ここから見る冬馬くん、かっこよくって、ドキドキするから、」
 ――ああもうこいつは。
 冬馬はシートベルトを外すと上体を捻って翔太の唇を奪った。助手席のシートを掴み、体重を預けてキスをする。一度は拒絶したくせに、離れがたくて舌をねじ込んだ。
 アルコールの香りが残る翔太の口内を丁寧になぞり、されるがままの舌先を甘噛みする。ふぅ、と鼻から漏れる吐息に満足して、冬馬は熱い舌と唇を吸いながらゆっくりと距離を取った。
「……俺は、おまえだってその……いじらしいと思うぜ。翔太」
 さて、冬馬なりの愛の告白は伝わっただろうか。
 少しだけ息を乱し、両手で口元を押さえてしまった翔太の顔は赤い。酔いだけのせいではないのだろう。だめ押しに骨張った指先へと口付けて、冬馬は何事もなかったかのように姿勢を正した。

 おまえなんか、一生俺に恋していればいい。
 言わないけれど。言えないけれど。
 
 午前3時27分。ぐんとスピードを上げて、1秒でも早く自宅を目指す。
 明日は仕事で……そうでなくとも朝は早いというのに。帰り着いたら速攻で寝てやろうと思っていたのに。
 今はただ、この男のすべてを暴いてやりたくて仕方がない。




午前3時のランデヴー/211205