お疲れさまですと、壁に背を預けることもなくただ一点を見つめる人にそう声をかければ、柔らかに微笑まれた。この人は実に多忙なため現場に顔を出すことはほとんどないが、今回は時間を作ったのだろう。そこには挨拶周りという意味も込められていそうだが。
「お疲れさまです。北斗さん午前中はオフでしたよね。見学ですか?」
「このあと冬馬も拾って三人でランチに行くんです。ここには少し早めに着いたので寄ってみました」
「相変わらず仲が良いですね、ジュピターは」
 口元に手をあてて笑うプロデューサーと俺の視線は交わらない。視線の先を辿ると、そこには翔太がいた。ひとりカメラに向かって要求された表情とポーズを作っている。その調子、というカメラマンのおだてに乗りながら髪を乱し、挑発的な笑みを浮かべる様はモデルも顔負けだ。
「翔太はこれから忙しくなりますね」
 嬉しさを含ませてそう口にすれば、プロデューサーも深く頷いてくれた。
 この業界に限っては忙しいほうがいい。仕事が充実していればしているほど事は有利に動く。プロデューサーもそれがわかっているだろうに、律儀にもよろしくお願いしますという言葉とともに頭を下げた。感謝してますよと笑いかけてやんわり制すると、その視線は再び翔太に向いた。
「撮影現場にも一度伺ったんですが、先方にはよくお褒めいただきました。今回の映画は翔太さんの代表作になると思います」
「…ずいぶんと難しい役でしたから」
 その映画の原作は業界で数多くの賞を受賞したものだ。生きることに絶望していた主人公がストリートダンスを通して本来の輝きを取り戻していくという、王道の物語。評価されている一番の理由は小説での描写が難しいとされるダンスシーンが秀逸だからだと言われている。これだけを聞くと翔太にぴったりな役だと頷けてしまうのだが、問題は主人公が十代の少女だということだった。女性の役を男性が演じる、あり得ない話じゃないがほとんどの場合回避される。今回この組み合わせが実現したのは奇跡だろう。何せ俺たちのライブを見たという原作者から、ぜひ主役は翔太に、と名指しの指名があったのだから。翔太のダンスに惚れ込んだのだと言われてしまっては断る理由はない。打ち合わせの段階では主人公を少年に変更するという案も出たらしいが、結局、原作者の意向もあって改変はなしということで落ち着いた。当時は無茶な話だと、俺も冬馬も呆れたものだ。
 伸びた髪はそのまま切らずに綺麗に手入れをして、少しでも柔らかな身体に見えるように肉をつけて、それでもダンスは映えるようにしなやかさは残したまま、翔太は見事この役を演じきってみせた。主役を翔太が演じると発表したときのバッシングは酷いものだったが、それもビジュアルや予告が公開されるたびに減っていった。すでに世間は男性とも女性とも見える少年の美しさに感嘆のため息を吐いている。御手洗翔太という存在を、まるでペガサスや人魚といった神聖生物を見る目で見ている。国民的弟という煽りさえ今の翔太には少しばかり窮屈かもしれない。本人は周りの反応に興味が無いのか、けろっとしているけれど。
「はーい、いただきましたー! 撮影終了でーす!」
 スタッフの声とともにスタジオ全体に照明が点けられる。お疲れさまでしたという挨拶が飛び交う中、翔太は水が入ったボトルとストローを片手に俺たちの元へやって来た。
「お疲れ翔太」
「北斗君。ごめん、来てたのぜんぜん気づかなかった」
 そう言いながらストローを使って水を飲む翔太を注意深く見つめれば、その唇は普段のものより赤く色づいていた。遠くから見ているとわからなかったが、目元にはラメも散りばめられている。なるほど、まあ役が役だしそうだろう。すっかり美少女になってしまった翔太によく似合ってるという褒め言葉をかければ、でしょう? と自慢気に返事をされた。
「ほんとうにお疲れさまでした。いつもおひとりにさせてしまって申し訳ありません」
「プロデューサーさんもお疲れさま。いーのいーの。インタビューも撮影もばっちりだよ」
「映画が公開されるまでは番宣に各雑誌の取材…大変かと思いますが、一緒にがんばりましょうね」
「はーい。今日はもう北斗君のところのラジオ収録が残ってるだけだし、撤収しちゃってもいいかな?」
「ええ…あのっ、翔太さん。衣装の返却は、」
 俺の腕を掴んで歩き出した翔太にプロデューサーが慌てて声をかける。確かに俺もそれは気になった。ノースリーブのサマーニットに白い足が丸見えのホットパンツ。大振りなネックレスも革のブレスレットもそのままだ。ヒールの高いサンダルはさすがに返却するのだろうが。
 大丈夫、といたずらが成功した子どものように首をかしげて翔太は笑った。緩いウェーブがかかった髪が肩の位置で左右に揺れる。
「――気に入ったから買っちゃった。かわいいでしょ?」


 最高だよね、と翔太が笑う。最高。一体なんのことかわからずに復唱した俺に対して、助手席に座っていた翔太は自信に満ち溢れた表情をしてみせた。
「今の僕が最高だって話。鏡見て一番にそう思っちゃった。僕ってやっぱりかわいかったんだなーって」
「…翔太は昔から自分の魅せ方を知ってただろう?」
「まあね。でも最近はぎりぎりかもって思ってたから。そろそろ潮時かなって。きっと来年はこんな格好できなくなるよ」
 あっけらかんと、まるで他人事のように自分を語る。よくもまあその歳で物事を俯瞰的に図れるものだ。
 三ヶ月前に翔太は十六歳になった。出会った頃と比べると、確かに身長も伸びたし丸みを帯びていた子どもらしい輪郭は大人のそれに近づいている。冬馬と比べたってまだまだ華奢だけど、皆に愛される弟アイドルとして売り出していた本人的にこの成長は褒められたものではないらしい。
 歳には勝てないもんだね。誰よりも大人びている子どもの言葉に苦笑する。
「ああ、だからその服そのまま買い取ったのか」
「うん。冬馬君に見せたいなって思ったから」
 当たり前のように冬馬の名前を出した翔太は断りもなくグローブボックスを開けて、入れっぱなしにしていた香水を自分の手首と首筋にふりかけはじめた。それ俺のなんだけど、と咎めてもちょっとだけだよと笑うばかりだ。その笑顔を向けられるだけでなんでも許してしまいそうになる。悪魔は笑みを絶やさないと聞くが、小悪魔ともなれば愛嬌のほうが勝るのかもしれない。
「翔太みたいな子と付き合えたら楽しいんだろうなあ」
 アクセルを踏む力を少しだけ緩めて速度を落としながら、思ったことを言ってみる。彼女たちを助手席に座らせてみたってこうはいかない。
 ちらりと横目で翔太の様子を伺えば、まるで珍獣でも目撃したかのような呆けた視線を俺に向けていた。くりくりとまるい瞳が零れ落ちそうで心配になる。
「…めずらしいね。北斗君がそういうこと言うの」
「そう? 言わないだけだよ」
「うーん…とりあえずごめんなさいって謝っとくべき?」
「あはは。振られた」
「そりゃあ振るよ。冬馬君が泣いちゃうもん」
 冬馬が泣くところか。見てみたい気もするけど、それはきっと翔太にだけ与えられた特権なんだろう。本当に泣くのかどうかはまた別の話として。
 ここだけの話、冬馬と翔太はお付き合いをしている。いわゆる恋人同士というやつだ。ユニット内恋愛。一人と二人。どうなるものかと危惧したこともあったが、幸いにも俺たちの関係は何ひとつ変わらなかった。遠慮しているのか無意識なのか、三人でいるときに二人が恋人らしい空気を作ることはない。俺が恋の話を聞くことができるタイミングはどちらかと二人きりになったときだけだ。北斗にだけだぞ、北斗君は特別だから、と二人の秘密を聞くことができるのだからこのポジションも役得といえば役得なのかな。
 俺がいるときは冬馬も翔太も依然とした顔をするけれど、それでも、いつの頃からか冬馬の翔太を見る目が変わった。ふとした瞬間、翔太に対して甘くとろけた目をするようになった。あの冬馬が、だ。恋をすると人は変わると言うが、それは冬馬だって例外じゃなかったらしい。…けれど。
 ――冬馬君がほしいんだ。
 いつだったか、そう口にした翔太の顔を俺は忘れられなかった。
「……変なこと言って悪かった。お詫びに今日のランチは俺のおごりってことでどう?」
「ううん、お金は自分で払うから北斗君おすすめの所に行きたいな。こんなかわいい格好してるんだし、僕を見せびらかしてよ」
「オーケー。そういうことならとっておきの店を選んでおこう」
「さっすが北斗君!」
 まあ、人の恋路に口をはさむのは野暮というやつだ。何の問題もなく上手くいっているようだし、下手なことを言うのは気が引ける。冬馬ならまだしも翔太に、というのも俺には難しい話だ。
 そうこう考えているうちに目的地に着いてしまった。車を停めて翔太ご要望のレストランに連絡を入れようとスマートフォンを懐から取り出していると、隣から冬馬君迎えに行ってくるね、と声をかけられた。
「ああ、冬馬によろしく。ゆっくりしておいで」
「じゃあちょっとだけ遊んでこようかな。ふふ、でもそれって北斗君が女の子とおしゃべりしたいからでしょ?」
 仕方ないなあ、と眉毛を八の字にして笑うと翔太は車から降りて行ってしまった。女の子らしい格好とはちぐはぐな男物のスニーカーがリズミカルに地面を蹴っている。走ったら危ないぞ、なんて言っても聞かないんだろう。冬馬のことになると翔太はいつだって全力だ。
 恋をすると人は変わる。冬馬ですら変わった。なのに翔太は初めて出会ったときから何も変わらない。つまり最初から恋に落ちていたということだ。冬馬に対する言葉も態度も反応も、そういうことだったのかと、今ならわかる。
「…俺も負けてられないな」
 今日のラジオは恋の話をしよう。翔太と二人で冬馬をからかって、いじめてみるのも悪くない。そう思いながら、俺は外を歩く女の子たちに手を振った。


NEXT